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項目 内容
ID J1100125
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(一八二八・一二・一八)〔中越〕
書名 〔見附市史 史料一〕
本文
[未校訂]文政の大地震と凶作
文政十一(一八二八)年十一月十二日、朝五つ時(八
時ごろ)に発生した大地震は、三条を中心として周辺の
町村に甚大な被害を与えた。(中略)現在わかっている範
囲では見附三組の被害状況は表2のようになる。
 見附三組の被害家屋の状況は、全体の戸数がどれ程あ
ったのか不明なのではっきりしないが、見附町組では総
戸数八八六軒のうち、「無難」はわずか二七軒にすぎず、
全体の九七パーセントが何らかの被害を受けている。
従って、見附三組全体ではおよそ九割近くの家屋が、何
らかの被害を受けたのではないかと想像される。また死
者は三組で一三五人に達したという。
 今町においても、被害状況は見附町組と大同小異であ
ったと考えられる。当時、今町の戸数は六〇〇軒に達し
ていなかったと思われるが、このうち「潰屋・焼失家等
四五百軒におよひ」と、文政十一年の「行事」(新発田市
立図書館架蔵)に見える。また同書によれば、新発田領
全域の地震被害は次のようになるが、その大部分は中之
島組のものであろう。
一田畑地割砂吹出場 二八一町四反
一堤破損 一〇、四一六間
一潰家一、七一三(内寺八、庵二、堂社六、土蔵一〇、板蔵二七)(一二二〇)
一半潰家 七二四(内寺九か寺)(四〇〇)
一破損家 五四九(内寺五か寺)(二七六)
一焼失家 一一一 (一〇四)
表2見附三組の被害状況
組名
焼失
本潰
半潰破損
無難
被災合計
見附町組
157
545
89
68
27
859
本所組
123
69
40
232
葛巻組
2
322
57
381
合計
159
990
215
108
27
1,472
(注)佐藤誠朗「文政の大地震と見附」『見附市史研究』3より作成。
一死者 二四二人圧死二一五人焼死 二七人
一怪我人 一三六人
(カッコ内の数字は、中之島組で家作家具手当を受けた
数である。)
 こうしてみると、見附町、今町ともに壊滅的な打撃を
受けていたことが予想される。特に町では、ちょうど冬
であり、しかも「朝飯時分」ということがわざわいし、
何か所かで火災が発生して被害を大きくした。長岡藩領
でも大きな被害を受けていると思われるが、詳細は不明
である。地震の被災者には、表3・4のような基準で救
済が行われた。両藩ともだいたい同じようなものである
が、米がついているだけ村松藩の方がよかったであろう
か。
 とはいえ、地震後の復旧にはかなりの年数を要したと
思われる。この年から数年間にわたって不作・凶作が連
続し、いわゆる天保の飢饉がおこるからである。地震後
の復旧のため、新発田藩では文政十二年に、「家作并家具
入用手当」として、身分および被害の状況に応じて、最
高一軒三両から最低三分までの補助が与えられたが、持
高五石以上の者は除外された。その額は中之島組だけで
二、九九五両一分におよんだ。村松藩では、藩が一、〇
〇〇両才覚し、都合二、〇〇〇両を「所々御普請入用始
町郷中難渋筋手宛金」とする予定でいたが、町方の才覚
表3新発田藩の地震手当基準
区分
焼失
潰家
半潰
庄屋
名主
本家
名子間脇借稼
××
貫文
28.000
7.000
2.500
貫文
15.000
7.000

1.500
1.500
貫文
7.500
3.500
0.750
0.750
注)文政11年「行事」による(新発田図書館架蔵文書)。
なお,半潰の中には破家損も含まれる。また,死者に対し
ては一律500文が支給された。
表4村松藩の地震手当基準
区分
焼失
潰家
半潰
高持
無高
長屋
米8斗,金3分
米4斗,金2分2朱
米1斗
米4斗,金1分2朱
米4斗,金1分
米1斗
米4斗,金1分
米4斗,金2朱
注)佐藤誠朗「文政の大地震と見附」『見附市史研究』3による。
なお,破損家には手当なし,死者に対しては一律300文支給。
がつかず、藩の出金した五〇〇両で急場をしのいだが、
文政十三年になって、今は返済する力がないので、一〇
か年賦で返済したいと願い出ている(二九)。
 文政十一年という年は、相当の凶作であったらしい。
村松藩では十月六日に、新発田藩では十一月十日に穀留
を発している。続いて地震の発生後、新発田藩では次の
ような触書を出した。
 当年は格別の凶作であるところへ、中之島組をはじ
めとして地震の被害も大きい。窮民の手当をはじめ、
堤普請等臨時の出費も大きいであろう。また、来年の
麦作が不作であれば、どれ程の飢民が出るか見当もつ
かず、場合によっては藩の救助の手も届きかねること
があるかもしれない。そこで城下に仮小屋を作り、村々
の飢人へ朝夕二度ずつ粥を与える。なお壮年の者は日
雇でも暮すことができるであろうから、老人と子供の
み差し出すようにせよ。但し残った者にも定例のとお
りの手当を行う。
この触書によって、領内各地から飢人が集り、翌十二
年二月には一、六〇〇人余、三月末には二、六〇〇人余、
五月末ごろには三、〇〇〇人を突破している。
 凶作であった点では村松領でも同様であったが、本所
組ではかなり余裕があったらしい。ただ地震直後、家屋・
農具などの破損が著しく、年内の年貢完納は不可能であ
るので、明年三月まで延期してほしいと願いを出してい
る(二三)。
 翌十二年三月、本所組は、年貢納入に差し支えないこ
と、諸上納物・役銀納入・家作小屋掛け直しなどで金が
必要であること、三月に入って米直段が上っていること、
米の置場にも困ることを理由として、見附町組へ三田米
七七〇俵を売ろうとしたが、値段のうえで交渉が成立せ
ず、計一、一〇〇俵の他所出しの許可を藩に求めている
(二八)。この結果がどうなったかは不明であるが、凶作と
はいえ、本所組ではかなりの余裕があったことを物語っ
ている。これに反して、見附町組では町家が多いだけに、
飯米確保にはかなり苦労したようである。
 文政十二年の作のでき具合については定かではない
が、文政十三年は越後一円「田方虫附」となり大凶作に
なった。藩では虫除仕法などを出し、防除に懸命であっ
たようであるが、結果は凶作となり、七月にはとにかく
糧になるものをできるだけ集めておくように指示し(三
○)、九月には新酒造りの禁止、穀留などを触れている(三
一)。この後、天保三年の冷夏による凶作、天保四年凶作、
天保七年飢饉と続いてゆくのである。こうしてみると、
やはり天保の飢饉のはじまりは、文政十一年の凶作と大
地震になる、と考えてもよさそうである。
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 495
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
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