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項目 内容
ID J1001046
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1804/07/10
和暦 文化元年六月四日
綱文 文化元年六月四日(一八〇四・七・一〇)〔羽前・羽後〕
書名 〔改訂遊佐の歴史〕○山形県
本文
[未校訂](享和地震の記録)
此年改元有って文化之甲子年四月にも相成りたる処海上
に「ナメラワ」と言うもの沖より一面に押寄せられ、依
て一切漁ならじ海辺一円浦々大いに困り、漁のなさざる
事を口説居れば、何国ともなく八拾余りの老人来り、此
度寄り内ナメラワは「赤クラゲ」とも「モタレ」とも知
也、我等幼少の時年寄りの話を小耳に聞きて覚え有り、
彼様なるもの出候時は其年必ず大浪来るべしと聞伝え、
名々油断すべきにあらじと教え、何国ともなく立去り候
が、人々其言葉を聞き騒ぎ居たる処に、五月下旬に至り
候処、毎日空かき曇りいつとなく悪る暑く雨が凪くと諸
人不思議になして居る処に、飛島沖にて大浪壱丈許り真
黒になって立上り候処、両御山より白御幣飛び下り浪の
上に落つると見えしが、忽ち彼の浪の底にクル〳〵と捲
き沈む、然る処に六月四日の夜四つ過に至り大地震当地
に寄ること前代未聞、其夜に置きては六七ケ処に出火小
泉より両家蔵共に寄り潰る処石場石は皆三尺計り埋み、
大地割れたる処泥の湧き出る事言語に述べ難し。然るに
市条観音寺共外出本辺の堅き所相違なしと馳せ来るなれ
共、観音寺に五六軒市条にも六七軒寄り潰れ、星川苅屋
辺相痛、古川島田前門辺惣体寄り潰され、安田上野曽根
牧曽根辺大痛み、酒田街道の割れたる事夥し、下市神村
治郎助と申して物持にて候が、母女房娘共に三人寄り潰
され亭主も既に危き事に候、明成寺治郎右衛門所にては
娘も戸口迄逃げ出せしが寄り潰され、新田目門出辺は大
痛み諸々の大手〳〵平地に相成り、御田地も其処により
苗代の如くに相成り、別て遊佐郷宮内外の村大痛み人馬
の死すたるもの不知数、下郷は宮田大井村服部辺惣体寄
り潰され、其時に至って壱弐軒宛も残り有所に、翌五日
に暮六つ時分大地震にて寄り潰され、地震は昼夜止む事
無之、依て五日晩より外にかり小屋を掛け何れも野宿を
致し、六日に相成り候処、今度大浪寄り来りしと言事也、
潰れ者共寝ござ又は蚊帳を背負い山を目当に市条観音寺
に逃げ来る人勢雲霞の如く、依観音寺辺の家有者共迄鍋
や飯櫃米などを背負い、菩提寺山小平林飛沢村大権現、
其外麓の辺に逃げ集る人数何万と数不知、[寔|マコト]此世は如何
に相成り候やと諸人ひっそとして居たり、去れ共両御山
飛沢山大権現の御加護にてさしたる事もなく、家ある者
は大いに喜び翌日我家我家に帰りたり。其内にわけてあ
われなるは、遊佐郷宮田南目辺四日晩五日迄に寄り潰れ
老若男女馬猫に至る迄皆押死致し、其節のことなれば葬
礼の仕度もなり兼、酒こがや古樽などに入れ埋め逃げる
もあるが、かゝる砌なれ共悪もの共の彼処と掛け廻り当
るを幸いに盗取、実に南目村重助と言う者は、彼の地震
にて女房寄り潰され之を掘出候得共終に息絶えたり、兄
弟一家とても寄り兼る時節如何ともすべきようなく死が
いを着物櫃に入置し処、又もや大浪寄り来ると山を目当
に逃げ迷い、依て重助も有るもあられず死がいを押捨て
年寄子供を引連れ逃げ失せ候、後に至って家に帰り見候
処、彼櫃無之故尋ね候えば、藤崎林の辺に櫃はあれ共死
がいはなく、是れ盗人の業なりたるか死がいは何ものの
為に喰われしと涙を流して不便の事也共、村々にて死し
たるもの葬礼などのいとなみもなく、そこかしこに理も
なく埋め置きし故共、魂は夜毎〳〵に助け呉れよと泣き
さけびかけ廻ること誠に恐しき事ども也、右六日内にち
浪来るよと村々立退きしと見るより、悪者共菅野の碇屋
の舟を盗み出し、宮田辺の物持を目当に乗り出し、其節
宮田には留守居少し残置きたれども知らじ、そここゝに
堅め酒など呑んで居たり、悪ものは兼て案内を知るもの
なれば思う儘に舟に積み込みたり乗り出さんとす。菅野
にては舟見えざる為定めし悪ものゝ仕業ならん。宮田辺
の空家に盗む所存に覚えたり、急ぎ宮田に知らせんと人
を遣して知らせたれば、留守居共大いに騒ぎ川端に行き
見れば、案にたがわじ小山の如く積みて出でんとする処
へ馳付、いや曲者と言いながら渋紙包や又は軽いものは
皆うばい取得候得共、重き米銭は終に盗人に取られたる
は痛ましき事とも也。中島村永運寺に其頃何国の来り候
嫁というもの居候が、四日夜の地震にて和尚諸共に枕を
揃えて寄潰る、居間敷処に女居候故御ばつやらんと其頃
の風聞也。塚渕村左五兵衛と申人壱両年以前に結構過ぐ
る家普請致し、未だ内栫ひも宜敷出来不致内、彼の地震
にて皆みじんになり材木壱本も用立不申、中々誠に痛敷
事共也。大久保村治兵衛と申人、年令九十に及ぶ父親八
十に余る母親有之候処、大浪寄り来るよと皆々山に逃げ
候間、観音寺村の遠い方迄も御出かと申候えば、年寄言
様我九十に及たし(す)からぬ命とてぬがれぬ事なれば、我家
にて死んであらば後弔ふてくれかし我は何国にも行かぬ
と思切たる有様也、治兵衛も様々とすすめ候得共一円合
点無き為、治兵衛も今は詮方なく左あらば我も死なば一
緒にと思い切り、夫より年寄の側を少しも不離大切に労
りたるが、然る処治兵衛壱軒残り誠に有難事也。大久保
村も惣体潰れ泥湧出住居不成為に家引出し、新田も作右
衛門孫右衛門二軒有之処へ、大久保の畑に家引出し、青
沢山中常禅寺の奥蛇すみと言処より川仲迄突出事夥し、
小平沢の奥二潟の沼より流れ出る小沢より、五間四方程
の大石湧出道に横たわり往来大いに迷惑致し、夫より芦
沢村しも代と言所御田地大に痛み、其外処々の痛み不数
知、舛田山中下黒川村大沢と言処が突出し家蔵御田地も
大痛み諸々寺々は痛み候得共、神社堂塔はいたみ不申地
震は昼夜少々宛止む事なく、同十五日に至り昼夜音ずれ
なき故、是れにて納まり候もの哉と諸人悦び居り処に、
昼過ぎより雨降り夜に入り雨は車軸を流し、依て大洪水
と相成り川端に水あふれ、其内仮小屋の者は雨にむられ
昼夜寝起き蓑笠放し事相成難く大に迷惑せり。酒田も新
片町より惣体潰れ、有町辺の堀一面埋み古蔵の潰る事十
有也、家の痛みも数知れず中にもあわれなるは片町舟肝
煎多七と申人、十七歳になる伜九才になる妹を小脇に抱
き出んとするに、彼の地震にて寄り潰され候故両親外よ
り声をかけ、今に掘出候間歯嚙を致し待てよと力を添え
て居る内に、壱軒隣りより出火にて兄弟の子供出る事不
叶とやせん、角やせんとうろたえ居る兄弟の子供はかな
しき声にて、最早火も懸り熱きこと耐え難く候間、助け
てくれ助けてくれよとかなしむ声、母之を聞いて火の中
に飛び入らんとするのを漸く抱きしめ居る内に、終に兄
弟の子供は無常の煙となりに候、翌日御役御改めあるに
彼の伜妹をしかとしめたる腕、中々離す事なり難く何程
の痛み候もの哉と、両親の心思いやられてあわれなり。
扨又、多七と申人大蔵不残潰され、家は焼け二人の子供
は見殺しする、酒田家数多くある内か程不仕合なる人は
又と二人は有間敷と聞人袖をすぼり候。夫より鵜渡川原
横町と言所観音寺法印、地震以前に雲気を考え是はいか
様不思議なるとて、三日三夜に御護摩を焼き行って御禧
札を町中に配る、依て町には壱丈計りのひび処々割れ、
九尺余り舟板も不及程の大痛候得共、けがもなく家も痛
まずと言事は、右御祈禧の御方便ならんと銘々法印様を
尊敬する也。平田郷も大多古荒辺大痛み、中野新田市右
衛門と申して、御城下竹の内八郎右衛門様のたやにて、
並びなき大家随分有徳に暮し家内も大勢にて候が、彼の
地震にて亭主女房娘と親子三人納戸に居て寄り潰され痛
敷事共也。右六日の夜円通寺へ悪者に押かけられ、既に
危き者有候由其頃専ら風聞也。平田郷も大浪来るよと矢
流川館生石山大平高尾山の麓迄逃げ登る人々夥し。山元
辺其外地の堅き所相違なしと雖、古蔵は土をはがれ家は
大いにかたがり壁は落ち、大木は転び誠にすさまじき事
也。川南松山御領一向に痛み不申、去れ共加茂の人間彼
の地震にて潮の引事壱丈五六尺、海辺共に岡になり、其
時分強気なる者其処にしね込んで、様々の魚拾い上げ、
右夫れ程の潮引し故、後では大浪来るべしと近辺皆皆山
に逃げたる事也。夫より塩越も大痛み、惣体寄潰され人
馬痛み不数知悉く山に逃げ登り候処、鳥海山寄り崩れ来
ると逃げ下り候処、又海辺より大浪来るともうろたえ廻
る人々身の置所なき仕末、只茫然として一所にかたまり、
又満王寺と申して古来より名に負う寺きさ(象)潟と申して八
十八潟九十九島是日本国にも聞き及びたる名所古跡に候
得共、彼の地震にて一夜に埋みて満王寺も彼の潟に寄り
潰され、皆寿津んに相成、去る寺内者も大勢痛みたる由
扨々痛敷事共也。野宿を致し山に逃げ候事は郷中一統も
相聞候、実に観音寺飛沢山大権現様の社地に、遊佐郷宮
田村老若百人集り野宿を致し居候が、円通寺方丈是を聞
不便なりと社地に行見れば、年寄も大勢見て候間扨々御
いとしき事也、幸い拙僧、寺に権雲院と無住有之、銘々
之に来られよと大勢引連れ来り、権雲院の檀頭にかけ迫
り、行を遂げ大勢を抱え被下候処、皆々悦び難有と暫ら
く逗留致居内飯米に困り、兎角町に下り御無心申さんと
観音寺弥八郎の方に来り、我々は遊佐郷宮田村の者にて
此度地震にて家は潰され、殊に大浪来ると先頃より飛沢
大権現様の社地に野宿致居候処、円通寺様の御蔭にて権
雲院様とやらに居候得共、飯米にこまり大に迷惑仕り、
依て御家柄を見かけ申来り候也、何卒御飯料の内少々な
りとも御拝借仕度奉願上候、命助かり候節はきっと御返
済可仕候間、御慈悲に御聞届け被下は、生々世々の御恩
にならんと願ひ候、弥八郎とくと聞、扨々御いとしき事
也。白米壱俵とり出し是は我寸志也、皆々是にて歯嚙を
致し助かり候え、重ねて返済に不及と、白米壱俵宮田衆
に下されば、有難と権雲院に来り大勢露命をつなぎ候が、
後に事納って宮田衆右御礼に来り候得共、弥八郎一旦
皆々に進上せしものなればと受取不申由、草履壱束十弐
文にさえ売る其砌、不見不知なる宮田衆を不便に思い、
白米壱俵早速くれ候と言も、是子孫繁栄にあらんと聞人
之を感候。又市条村普門院方丈右六日に大浪来ると、荒
瀬下郷不残「エードウエードウ」と山に逃げ登るを見て、
中にも哀れなるもの候わんと不便に思い接待致し候間、
当村普門院にと大文字に書き、村外れに高札を立被下候
由、余計とてもなき方丈諸人を不便に思い大勢を救われ
被下方、珍しき御出家難有事と皆々之を感じ候。若王寺
勘太と申人代々大百姓にて有徳に暮し聞及びし大家に
て、家来七人下女三人右浪来るよと皆々山に逃げ候時節、
亭主申様各々何方に逃げ行も路金なくては不叶と、壱人
に金壱分宛あづけ暇を遣わし、酒抔を呑、若し命助かり
候わば、又立帰り勤め呉れよとて分れしが、左様なる深
心故か家は潰れ候得共、材木一本も痛み不申由、世間に
家来抱え置人々多分有之候得共、か様なる致し方ならざ
るものと皆々是を感候。新田目村梵昌寺大方丈、大地震
の頃村中潰れ極貧の者迷惑にあらんと思、潜かに米五俵
出し村役人を相頼み、御手前の院にも貧しきものへ呉候、
誠に貧しき者金竜和尚様難有也と皆々之を感候、右此中
後にては御上様より御褒めに預り申候其頃間々風聞也。
其他世間にさま〴〵の事之有由に候得共、筆紙に尽し難
し、右大略を印す地震は昼夜少々止むことなく由(油)断なら
ざる也、七月二十六日夜大風夜に入至って強く家鳴り渡
りさみしき事也、八月二十九日も大風九月十二日大雨、
十三日大雷雨降る事世の常ならず、天気不順故田畑共不
宜敷相成ける、誠に前代未聞と言う事で御座りけり、先
づは右大略を記する。
今より一七四年前の寛政十二年(一八〇〇)の冬、鳥海
山に噴煙があがったので、翌年の享和元年春に蕨岡、小
滝の人々が登山して噴火の実状を調査した。大物忌神社
の社殿のあたりは既に火口に変わり、七高山と荒神岳の
間には新しい火口丘ができ、登山者たちは丁度噴火にあ
い、その鳴動をきき噴出物をかぶってほうほうのていで
かけ下り、その恐ろしさを考えよく命があったものだと
語っていたことが記されている。その後十数年、文化九
年(一八一二)の頃に漸く噴火もおさまり、今の鳥海山
の姿になったので、新山を別名享和岳ともよんでいる。
 この噴火にともなって文化元年(一八〇四)旧暦六月
四日夜亥の刻(十時頃)鳥海山を中心に激震がおき、そ
の被害は非常に大きかったが、ことに山麓の村々がひど
かった。太平洋岸の松島とその風景をきそった象潟の海
が陸地に変ったのもこの時で、今はわずかに能因法師、
桃青宗匠の吟詠を通して当時の風景をしのばれるだけで
ある。ついで余震がつづき、翌五日の夕方六時頃に大激
震があって数日の間さらに余震が続いた。当時、遊佐郷
の戸数は明和七年(一七七〇)の調べによれば二〇六〇
軒で、文化の頃になってもせいぜい二二〇〇軒と推定さ
れるが、その被害は当時の記録によると次の通りで無事
の家屋はわずか一〇〇戸内外であった。また、庄内を通
じて潰家の合計は三二〇〇軒その半数の一五〇〇軒が遊
佐郷という被害をみてもその地震のはげしさがわかる。
―現在の遊佐の町区域内で無事なのは四軒と語り伝えら
れている。
石辻組 宮野内組 江地組 合計
潰家 三五〇 五四七 五五〇 一、四四七
大破家屋 七四 三七〇 二〇〇 六四四
焼失家屋 〇 一 一八 一九
潰土蔵 一三 二三 二八 六四
大破土蔵 一六 〇 三六 五二
潰郷倉 九 〇 一四 二三
大破郷倉 七 一三 八 二八
潰稲倉 二三 二〇 二三 六六
大破稲倉 一三 一 一 一五
潰小屋 一 二 三六 三九
大破小屋 〇 〇 一一 一一
鎮守全潰 一五 一四 一四 四三
鎮守大破 一三 二〇 一九 五二
官舎潰 〇 〇 四 四
圧死人 一六 五〇 四三 一〇九
怪我人 一一 一二 四七 七〇
死馬 一五 五〇 八四 一四九
怪我馬 八 六 一四 二八
 それに加えて一二日、一六日、二七日に大雨があって、
その度ごとに大洪水にみまわれ田畑は泥海となった。そ
の損害は河北亀ケ崎御城領七四、〇五五石、内訳は地震に
よるもの四七、六七三石、洪水によるもの二六、三八二石
であった。当時日向川、月光川の排水が悪くことに稲川
村、六ツ新田、宮内、吹浦の東、高瀬村の西方などの遊
佐郷の西半分は時々の出水で泥海となることが多かっ
た。人々は打ち続く天災になすすべを知らず、死者をと
むらうことなどもせず、負傷者をいたわる考えもなく、
潰家を取り片づける気力もなく、一っ時をしのぐ小屋さ
えたてずにいっ時も止まない激震、余震にゆられ、流言
におびえ、ただどこかへ逃げて命だけでも助かりたいい
っ心でさわいでいたということである。
 家は潰れ家財道具はなく、食物は少なくて飢餓がせま
り、人心が動揺して一家離散するものや、郷村の分散す
るものが生ずるのを心配した村役人は藩庁に連絡した。
藩主忠徳公は前年任命した代官諏訪部権三郎、相役渡部
藤四郎を急いで派遣し善後策を講じさせた。代官が石辻
の役所に着いたのは八日であった。役所も震害をうけて
潰れたので、掛小屋をつくって仮役所とし、直ちに納方
手代を各村に派遣して人心を鎮めたが、ただ口でさとし
ても落ち着きそうにもなかった。代官も自分で方々を見
まわったが、その惨害の大きさをみて民心を鎮めるには
餓えをしのがせ、それぞれの仕事をさせるのがよいと考
えた。しかし、その方策を藩に問合わせていては日時が
経過して事態が悪化し、いかなることになるかわからぬ
と判断し、自分の命をかけて民心を治め復興をはかろう
とした。藩の許しもまたず、相役のあやしむことも顧み
ずに独断で郷蔵数倉を開いて玄米四、〇二二俵を被害者
に貸し、一時の急場しのぎにあて、自ら各村々の村役人
をはげまし、被害者をなぐさめはげまして被害をうけた
田畑や作物の手入れまで指導督励した。
 この施策で、人々は飢餓から救われ、逃亡の気持もな
くなり、落ち着きをとりもどし仕事に励むようになった。
その上で諏訪部権三郎は藩庁にその状況をくわしく報告
し、民心を安定させる施策を建言した。その結果、その
年の秋までに先に貸した四、〇〇〇俵は救恤米として被
害者に下されきりとなり、その外痛み米二〇四俵は吹浦
組五ケ村に、四一俵三斗六升五合は北目、下野沢、南目、
鷺野町、上楸島の五ケ村に救与し、更に籾五四二斗四升
二合を一般の人々に救与した。また、罹災者の建築資金
として一戸あたり金一両二、三分ずつ、合計一七二三両
三分を無利子一〇年年賦で貸し、圧死人一〇九名の家に
は白米二俵ずつ、潰家には一人につき白米二合ずつの一
〇日分を与えた。このような施策は人々の気持を励まし、
その年の作柄は平年の六分作にこぎつけた。
 ところが代官諏訪部権三郎はこの年の一一月二六日に
京田通代官に役替を命ぜられた。これは代官が独断で多
くの施策を行なったからで、役人として綱紀をただす上
から止むを得ない行政措置であった。しかし、遊佐郷の
復旧が漸く軌道にのったところで、温情あふれる代官の
転出は多くの人々を悲しませた。その後数年もたたない
うちに遊佐郷は昔以上の繁栄をとりもどしたが、人々は
その恩顧に報いるため四〇年後の嘉永元年(一八四八)
遊佐郷本願寺頭に、台石二段の上に獅子座を置き、その
上に巾二尺、高さ四尺の碑を建てた。その碑面に「諏訪
部君碑」と刻み、台石に遊佐郷中建立、世話人六日町村
吉兵衛、上野沢村善九郎、宮野内村仁市郎と刻んでいる。
建碑後の遊佐郷の人々は、碑前を通行する時は笠をとっ
て礼をし、馬上打ち乗りは許さなかったということであ
るが、これも人々の報恩感謝の姿と考えられる。天保年
間の復領農民運動で、遊佐郷の人々が鎮守に祈り、妻子
を捨てて出訴したことなどは諏訪部代官への恩義と領主
酒井家の善政に報いる姿であろう。
 その後大正二年、この碑が誰の碑であるかわからなく
なるのを心配して、裏面に諏訪部代官の事蹟のあらまし
を刻みつけた。その上遊佐郷各村ならびに有志が集まっ
て諏訪部氏記念会をつくり、毎年六月一五日に諏訪部祭
を行ない、碑の前に山つつじをもって碑前祭を、寺内で
は供物を捧げて祭典をとり行なっている。諏訪部氏はそ
の後、後継嗣が絶えて霊を祭る人もいないが、その温情
は遊佐郷の人々の心の中に脈々と流れている。
出典 新収日本地震史料 第4巻
ページ 248
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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