[未校訂] 更に大に下りて宝永四年十月五日の震災に於ける海嘯の
災害は、其の及ぼす区域大略知る事を得、即沿岸より約三
十町に及べる区域の低地は家宅田園殆全部流亡して荒蕪に
帰したり。年恰も丁亥に次す。世に之れを亥の大変と云
ふ。
大岐
海嘯旧念西寺の最下段に迄来ると。以下口碑
中浜浦
「福万寺。宝永四年大潮ニ寺流失。享保元年地蔵駄馬
ト云所へ移ス。」(土佐国寺院名記)
清水
海嘯今の村役場床に上る。石段を下より七段迄の所に及
ぶと伝へ、又蓮光寺の石段を上より三段の所に及ぶとも云
へり。
“清水浦添誠に無双なり。本清水と云所有むかしの清水
なり。大変の後にや今の所に移れり。家数ありてあしから
ず。こゝは大変におとろへ其後に又よくなりたりと見えた
り。十五年前迄は猟船十四五艘ありしが今は三艘のみあり
とぞ。”(西浦廻見日記)
三崎
海嘯は下の段の高さと斉しき高さを以て襲ひ来る。田ビ
ラと云ふに糸車の漂着せるあり。矢野川家の祖先拾ひ取り
近年迄存しありしが今はなし。
平の段の東方字松の下に潮の打止めと云ふ所あり。(旧
三十三番の名の内)此所は当時の海嘯の及びたる最端なり
しより此の名ありと云ふ。
小石山の付近及桜花の北方の本屋敷、龍串北方の三助屋
敷、爪白堺の勘六屋敷等其の住民が去て平の段へ移住せし
所以の者は、皆此の海嘯の襲来より将来を恐れての事な
り。
大正六年電柱を樹立す。中町と村道斧積線との交叉点を
西方三間の処の地中に、径約二尺七寸の大釜の西に向て横
さまに埋没しあるを発見す。(釜はそのまま地中にあり)
是れ疑ひもなく当年の海嘯に埋没せる者なり。
著者の亀井釣月がその著「川陽叢話」に“亥の大変の記
念碑春日神社鳥居の南約一間の所にありしが、往年大波の
為砂礫の下に埋没すと云ふ。いつかは発掘せま欲しき者な
り。碑は自然石に素人細工に文字を彫り付けありと云ふ。
思ふに当時は奇人田中甫仲の棲住せし頃なるを以て同人の
建立せし者ならん”と述べているが、この記念碑大正六七
年の頃著者の念願通り著者の手によって発掘せられ、春日
神社鳥居の南側に建てられてある。高さ一・五メートル余
の自然石で、未完成で碑面に「宝永(少しく横に)十月四
日」と、稚拙な彫刻がしてある。一見して素人細工という
ことがわかり、ほちろ様などと照合して田中甫仲の作とい
うことがうかがわれる。
片糟
宝永四年の海嘯には亡所となり住民他に出で去り、夫れ
より七十年を経たる安永の頃に於ては居住者僅に一戸を見
るに至りしが、爾後漸々増加するに至れり。
戸数 天正十八年四戸 安永元年一戸 享和文化ノ頃二
戸 明治五年九戸 明治十年十二戸
片糟に三十八戸の住民があったという口碑は事実に近いも
のであることは、「西浦廻見日記」の中の次の一節でうか
がわれる。
「三右衛門は片糟本田、新田八十三石余の地やうやくに
荒れて近年迄生地五反あり。百姓壱人居りしがこれも後
居らずなりたるを願ひて引こし五十石ばかり開きし由。
猪鹿多き故荒しなり。お留山の間なり。片カス七八十年
前までは庄屋もありて一村の所なり。地検帖に見れば郷
浦と見え水主も有し様子なりとぞ」
西浦廻見日記は安永七年(一七七八)時の浦奉行谷真潮の
書いたものであるが、安永七年から七八十年前というのは
宝永四年前後に当り、宝永四年亥の大変で亡所になった傷
手が回復されないままずっと続いたものと想像される。亡
所になる前は庄屋もあり水主もあり一村の所であり、しか
も郷浦にわかれていたとあるから三十八戸の住民があった
ということがうなづかれる。
土佐州郡志「片糟村」の条に、寺社善願寺今属川口村正善
寺とあるがその寺屋式跡といわれる所に数基の五輪塔・石
碑があり、また部落の入口松林の上方に無数の墓のあるの
も、そうした口碑を裏づけるものであろう。
貝ノ川
海嘯山の神の渡瀬を過ぎて尚竹ガ市に及ぶ。口碑