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項目 内容
ID J0900645
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔下川口村誌〕○高知県▽
本文
[未校訂]宝永四年十月四日此日朝より風吹かず一天晴れて片雲を止
めず、暑き事極暑の如く為に単物帷子を着せし者ありと云
ふ午の上刻東南の方角にあたりて大なる音響あり間もなく
大地震動を始め[踵|つぎ]て海嘯襲来し、沿岸の低地にありし建物
及其他の物件は之れが為殆ど全部流亡に帰せしのみならず
人畜亦多数の死傷あり、土佐全州に於ける当時の調査書に
よれば流失家壱万壱千九拾五軒、死人壱千八百四十四人と
註せらる、吾が村内に於ける流亡戸数死傷の人員は詳なら
ずと雖も下川口浦の建物が此際全部流亡に帰せしは口碑之
れを語るのみにあらで事実は明かに証明する者あるが故に
争ふべからず、先づ口碑を挙ぐれば
一 分一役場(当時の役場は下モ町防波堤の東端にありし
と云ふ者もあり)在勤の官吏高所(松の枝と役場の屋上
との両説あり)に登りて海面を見張り周章狼狽する農民
に向て絶へず洪波襲来猶予の有無を警告し、大に避難上
の利便を与へつゝありしが自己は軈て打ち来る波浪の為
に足場と共に洗ひ去られ遂に溺死す(屋上にありて京都
訛りにて助けて呉れよと連呼しつゝ流れ去りしと云ふ)
下川口浦に残れる口碑
二 当時の海嘯は谷屋敷墓地の下段と酒造場との間にある
蘇鉄に迄及びたり(一説には下段の榎の木の枝に海草掛
かり居りしと云ふ)
右同
三 波頭正善寺(今の村役場床にありし)の板椽に及べり
下川口郷に残れる口碑
四 宮尾の前川に梭魚七尾の漂ひ入れるありて同地に七か
ますの名称あるは即ち此事実を記念する者なり。
宗呂下川口に残れる口碑
五 片糟全部亡所となり住民四方に離散す。
片糟に残れる口碑
六 貝ノ川海嘯山の神ノ渡瀬を過ぎて尚竹が市に及ぶ。
貝の川に残れる口碑
七 大津寺の石段下より三つ目迄及ぶ。
大津に残れる口碑
以上の口碑の外文書に残れる者を掲ぐれば
一 宝永四亥年十月大変にて地中家並網具不残流失仕候処
右魣網仕出銀弐貫又々拝領被仰付候
下川口浦庄屋より差出したる御入国
以来年譜書中の一節
二 正辰
童名牛之助(中略)明和八年領知職分共他譲安永元辰
年新規拝領奉願片粕村拝領ス知三十石ノ外御貢物立ニ
開ク安永六酉年開発相済翌戌年七月十八日郷士職ニ被
召出片糟数百年亡所開基ノ元祖也
片糟細川家系譜の一節
三 右地検帖先年書写地方役人之校合雖為所持去年亥十月
四日大地震之後入高潮令流失趣依訴来遺謄(ママ)写畢且興本(ママ)
帖令校合違ノ処直々地面ホノキニ印判四ツ押之此外削
字直字無之者也 宝永五子年正月廿一日
下川口地検帖の末尾の文
四 (前略)私先祖上岡中亟ト申者右知行ノ作配役仰付(被欠カ)数
年相勤申候由申伝候然ルニ先年大地震大潮ノ時先祖書
流失仕相知不申候云々。
大津の庄屋たりし上岡家より指出し
たる書中の一節
此文中にある先年の大地震大潮とは宝永の変災を指したる
者にて同家が元下地に邸宅を構へありしを今の処に移転せ
しは宝永の変災に遭遇してより将来の危険を慮りしによる
者と云ふ。
更に編者の父の筆せる本田貢物噺なる記録を閲すれば左の
記事あり。
(前略) 昔宝永七寅年改正と有其改正の訳を考ふるに
本田屋敷を鍛冶大工上り地と云ふ是は定て宝永四亥十月
四日大汐入て地下悉く流れしと云ひ伝ふ其時上り地と成
たる者か云々
宝永七年改正とは同年に於て浦部落の邸地を改正検査せし
やと云ふ事にして其改査の必要起りしは他なし、同年より
四年前は宝永四年にして即ち世に所謂亥の大変のありたる
年なれば此大変の為に浦分の全部荒蕪に帰したるが故な
り。而して父が此改正ありたるを確めしは浦分の邸地貢物
の一件に付浦分の民衆を代表し当時の里正に交渉を為した
る場合、時の里正の提供したる改正簿を見たるによる者な
り(編者が明治廿一年の頃村役場の書記として在勤中一見
せし事ありしは之れなり、今は村衙になし)又元禄より宝
永享保の交に跨りて医師田中甫仲と云ふ者の下川口浦に住
居し其生前に於て手づから石に六字の題目を刻し开を各所
に建立せし事ありしが此石往年市内の地中より顕はれたり
(詳しきは田中甫仲の条にあり)即ちホチロ様と云へる石
是なり。近年に至りて中町の或る邸内より鍔鉄を発掘し若
宮口の河岸より大なる平鍋を掘り出したり是等の事実によ
りて考ふる時は下川口浦の如きは啻に家屋の流去したるの
みにあらずして凡ての邸地は洪波の捲く処と為りて全く砂
礫の下に埋没したる者なり。片粕の如きは伝ふる如く村落
挙げて荒蕪となり大津の如きも里正の邸宅流れしと云ふの
一事に徴すれば是亦人家の過半は流亡に帰せし者と云はざ
るべからず。詮じて茲に至れば当時の海嘯の如何に大ひな
りしかを窺ひ得たると同時其猛威の分一役場を呑みて更に
寺院に及び尚余波遠く宮尾の前川に達したると云ふ。口碑
の彼此能く相一致するに点頭せざるを得ず、今専門の技術
者をして海嘯襲来の高度を測らしめしに明治四十五年六月
三日(満月五月二十一日六月三日の月の出九時十六分)午
後六時の海潮面より実に二丈五尺九寸二分なる事を測定せ
り年恰も丁亥に次す世に亥の大変と云ふは之が為なり。
 亥の大変の紀念碑春日神社鳥居の南約一間の処にありし
が往年大波の為砂礫の下に埋没すと云ふ。いつかは発掘せ
ま欲しき者なり、碑は自然石に素人細工に文字を彫り付け
あると云ふ、思ふに当時は奇人田中甫仲の棲住せし頃なる
を以て同人の建立せし者ならん。
○古老遠近専次郎の祖父長兵衛と云へるが父に当たる人の
代の出来事なりし迚専次郎幼少の頃昔語りし談に曰く
分一役場の吏員が流れしは退潮の場合なりし、当時は震
動するに非ずして凄じき響を為して鳴るのみなりし、衆
民は一たび上の山へ迄逃れしも家財を取るべく家に帰り
し者海嘯の為に流されたり云々
○海水の退きし時はあこぎ出し迄干潟となりしとの伝説あ

○海潮襲来の高度を測量せし標点は今の下川口村役場玄関
柱の礎石の上面にて高度は此度数の上に尚三尺を加へし
者なり、蓋正善寺は今の村役場床にあり且海潮は此椽板
に及べると云ふにより後に加へし三尺は椽の高さを想像
してなり
○測量者 長橋太郎 西森宇太郎
此人々は当時郡道改修工事の監督として久しく下川口に
寄寓し居れり
○海嘯の襲来は十二回なりしと、須崎円教寺の記載にあり
(片粕の沿革 前略)而して是等の住民の子孫は爾後連綿
として此村に棲住せるか、決して然らず皆他方に移住して
一人も今日に残れる者はあらざるなり、口碑に曰く亥の大
変の為亡所となり、住民出でゝ他方へ移ると、是宝永四年
の地震及海嘯の変災なり、当時調査せる土佐全州の統計書
によれば亡所浦六十一ケ所半亡所浦四ケ所亡所郷四十二ケ
所半亡所郷三十二ケ所とあり、片粕は即ち其一なり、今の
細川家の祖先三右衛門正辰と云へるが此村に来住せる時は
長八と云へる者のみ居住せしが間もなく去りて宗呂に移れ
り、是同家に残れる伝説なり、今同家の系図及年譜を見る
に左の如く記せり。
正辰、童名牛之助(中略) 三右衛門と革名(中略)安
永元辰年新規拝領奉願片粕村拝領知三十石の外御貢物立
ニ開ク安永六酉年開発相済翌戌年七月十八日郷士職ニ被
召出片粕数百年亡所開基之元祖也 系図
一明和八卯年領知職分共云々(中略)安永元辰年片粕村
新規ノ拝領知奉願御聞届被仰付候吉米三石四斗八升片
粕村百姓名頭長八御貢物未進米払替片粕村へ移住仕候
年譜書
宝永四年より安政七年迄は此間七十年なり、系図に片粕
数百年亡所開基云々とある数百年は数十年とあるべき
を、誇大に書したる者と見て可ならん、要するに宝永の
海嘯の為に亡所となりし事、及当時の住民の漸々出て、
他所に移りしは事実なり。
(遠奈呂の沿革)此地は高地なるが故に亥の海嘯の為に
害を被りし事あらざりしなり、
(歯朶ノ浦の沿革)歯朶の浦は近代迄樹林のみにて寸土
も耕地なき無人郷なり(中略)
天正の地検帖によれば約八反の耕地ありて、太郎三郎なる
者棲住せし証跡あれば、往古は耕地住人共にありしも、爾
後変災の為に荒蕪となり人は去て他に移りたる者ならん、
天保七年の地押帖(ママ)を閲すれば全十筆の土地の下に皆荒字を
記しあり、即全部荒蕪となり居れる事実見ゆ、天保七年は
亥の大変を下る事、百十八年の後にあり、其荒蕪となりし
は思ふに片粕と同じく当時の海嘯の為ならん。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 545
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 下川口【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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