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項目 内容
ID J0900646
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔土佐清水史 下〕○高知県
本文
[未校訂]宝永の大地震
 宝永四年丁亥年(西暦一七〇七年)一〇月四日(一二月
二八日)未の上刻(一四時頃)の地震を世に亥の大変と云
う。震源地は潮岬の南方沖合らしく最大級の地震で大和・
摂津・紀伊・伊勢・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊
豆・相模・近江・長門・阿波・讃岐・伊予・土佐・豊後・
日向などは大激震で屋舎の頽潰二九、〇〇〇、人畜の死傷
四、九〇〇と云うからその震域の広大震動の猛烈であった
事は驚く可きである。この大震に伴って土佐・伊予・阿波
・豊後・日向・長門・摂津・伊勢・三河・遠江・伊豆等に
大津浪が来襲した。
(谷陵記) 未の上刻大地震起り山穿ち水を漲し川埋り丘
となる、国中の官舎民屋悉く転倒す、逃んとすれども
眩て圧に打れ或は頓絶の者多し、又幽峯寒谷の民は岩
石のために死傷する者若干なり、係る後は必ず高汐入
る由云伝うなどつぶやく所に同下刻津浪打よせ海辺の
在家一所として残る方なし、未の下刻より寅の刻(四
時頃)まで昼夜一一度打来る也、中にも第三番の津浪
高く山の半腹にある家も多く漂流す、国中(土佐)の
死人二〇〇〇余人、津浪の高さは土佐にて二〇米余津
浪の範囲は九州南東岸より東は伊豆に及ぶ。
(弘列筆記) 未の刻ばかり東南の方おびただしく鳴って
大地ふるいいづ、其のゆりわたること天地も一つに成
すかと思はる、大地二、三尺割れ水湧出し山崩れ人家
潰ること将棋倒しを見るが如し、諸人広場に走り出づ
る五人七人手に手を取組といへどもうつぶしに倒れ、
三、四間の内を転ばしあるひはあおのけになり又うつ
ぶしになりて逃走ることたやすからず、半時ばかり大
ゆりありて暫止る、この間に男女気を失うもの数知ら
ず又暫くしてゆり出しやみてはゆる幾度という限りな
し、凡そ一時の内六、七度ゆりやまる間も筏に乗りた
る如くにて大地定まらず、割りさけたるところより泥
水湧き出し世界も今沈む様にぞ覚ゆる、其の時半時ば
かりあって沖より大波押し入ると声々に呼ばり上を下
へとかへし近辺の山に逃げ上る。
(公儀差出之写) 流家一一、一七〇、潰家四、八六六、
破損一、七四二、死者一、八四四(男五六一、女一二
八三)、傷者九二六(男八〇九、女一一七)、流失牛馬
五四二、流失米麦二四、二四二石、濡米麦一六、七六
四石、船損害七六八、流失材五四、六〇〇本、損田四
五、一七〇余石、井関川除堤損四、一〇九所、流失板
橋一八八(土佐国中)
(下の加江) 亡所 潮は苣の木まで、浜より行程一里、
故の市井は海底に沈淪し舸艦を多くつなぎぬれば外に
可記なく、舟を座に蔵し、山を沢に蔵す、驚動再三。
(変事録)
(鍵懸) 亡所となる 田苑一面の海となる。(変事録)
(久百々) 亡所となる。(変事録)
(大岐) 亡所 潮は山まで、念西寺と云ふ所の寺並民屋
三軒残る、是皆山上に有る故なり、此外一木一草な
し、田園は一枚の砂浜となり渺々乎として暗に胡に迷
ふ、南の山下に湊生ず。(変事録)
(大岐口碑) 津浪旧念西寺の最下段に迄来ると。
(伊布利) 亡所 潮は天神山の峠五尺斗り下迄市井海と
なる。(変事録)
(伊布利口碑) 防波堤の長約一八〇間南方低くして北方
高し、津浪は南方天神ケ森下より六〇間位堤を押し切
りて襲ひ来り田園を全く砂浜となす、浪先は海岸を距
る約七町の西方字月の口と云へる所へ迄達したり、砂
浜となりたる田園は復旧の難き所より時の庄屋某なる
者に与へ全人更に開拓す、現今の田園の中央に島の根
と云ふ周囲凡そ五〇間高さ九尺位の島の如き高地ある
は即其際取り除きたる砂礫を堆積したるものなり。
(窪津) 潮は山迄、一ノ王子の社斗り残る。(変事録)
(大浜) 亡所 潮は山迄。(変事録)
(大浜口碑) 旧万福寺の門前の階段を上より三段を残し
て下方は一切浸水す。
(中ノ浜) 亡所 汐は山迄。(変事録)
(浦尻) 亡所 汐ハ山迄。(変事録)
(清水) 亡所 潮は越浦境の小坂を越す山間の家少し残
る、鹿島流る、津浪今の村役場床に上る、石段を下よ
り七段迄の所に及ぶと伝へ、又蓮光寺の石段を上より
三段の所に及ぶとも云へり。(変事録)
(越) 亡所 潮は山迄加久見の通路舟を用ゆ。(変事録)
(越口碑) 津浪は南は上原屋敷と云ふの段を限り北は庄
屋ヤシキとて其頃庄屋ありし屋敷に及べり、家宅の残
存したるは此の庄屋のみにて他は凡て流れたり、庄屋
の家族は其の背後の山に避難し且公簿など取り出した
るも津浪の為に皆濡れたり、越より清水へ通る街道は
一面の海となりたれば舟にて辛く往来を為したり、又
其頃迄の氏神は天神宮なりしが津浪に御神体漂ひ去り
て加久見の川尻なる今の宮床と云へるに着せしも加久
見の村民拾ひ上げたり、之を耳にしたる本部落の者迎
へ奉らんと交渉するも肯ぜざるより已むなく別に八幡
宮を勧請す、即ち今の村社之なり。
(加久見) 半亡所 潮は山迄、山間の家少し残る。(変
事録)
(養老) 亡所。(変事録)
(下益野) 半亡所 潮は田丁残なし。(変事録)
(三崎) 亡所 潮は山迄、山腹の家少々残る、田苑は一
面の浜となる。龍串の奇岩埋る、遺帳。(変事録)
(三崎村誌) 宝永四年一〇月四日午の上刻(未の上刻の
誤字ではないか)より大地震動し始め、間もなく大津
浪の襲い来る所となり土佐全国の浦々の低き地は流失
亡所となりたるもの多し、全流失家屋一一、〇九五
軒、死者一、八四四人となり、吾が三崎村に於ける被
害数は文献に見えず古老の口伝判然せざれば明らかな
らざるも大なる被害ありしは論をまたざる所なり、三
崎浦に於ける津浪の高さは殆んど下の段の高さと等し
き高さを以て襲い来りしものの如く田ビラに糸車の漂
着せるものあり、矢野川家の祖先拾ひ来り近年まで存
しありしが今はなし、尚平の段の東方字杉の下に汐の
打止めと云う所ありて津浪の最後の地と云ふ。
 そもそも平の段に人家聚落せしは此の亥の大変に依
り今芝(小石山附近及び桜浜地方)の本家敷、稗田
(龍串地方)の三助家敷、爪白堺の勘六屋敷等住民の
移住せしに充り、当時は一帯の竹藪なりしと伝う、其
の他沿岸より約三〇町歩に及べる区域の低地は家屋周
囲殆んど全部流失して荒蕪の地と化したるものの如く
斧積、奥益野方面にまで及べり。
(下川口) 亡所潮は山迄、山上の家少々残る。(変事
録)
(下川口口碑) 浦分谷家敷墓地にある蘇鉄に海藻のかか
れるあり、波は正善寺の板縁に及び浦分の家一切流失
す、此際分一役場在勤の吏屋上に登りて海面を見張り
周章狼狽する衆民に向て絶えず津浪襲来に就ての猶予
の有無を警告し、大に避難上の利便を与えつつありし
が不幸にも自己は打ち来る波浪の為に家宅と共に漂ひ
去り遂に溺死す、波浪は遠く宮尾の前に及び退潮はア
コギ出し迄の間干潟となる。
 浦分街路の中二ケ所より(イロほちろ)様と云へる
石各一個を発掘す、ほちろとは田中甫仲の刻したる六
字の名号を刻したる石にて田中は宝永年中下川口浦に
棲住せり。
 浦分若宮口の河川の辺より大釜二、三枚合はせたる
者を発掘す、以上は此の津浪に埋没せる者なり。
(貝ノ川口碑) 津浪山の神の渡瀬を過ぎて尚竹が市に及
ぶ。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 548
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 土佐清水【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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