[未校訂]「須崎史談 二八」
鍛冶橋の前身播磨屋橋架橋の播磨について
三郎兵衛は『陋巷浅説』によれば、宝永元年甲申年、山本
藤兵衛、吉岡屋善兵衛その他大浜氏子の有志で多の郷加茂
神社の御輿を寄進している。
従って宝永津浪前既に播磨屋の屋号で、須崎浦屈指の商
家だった貴重な文献である。須崎浦の貴重な文献、史料は
宝永四年丁亥十月四日亥の大変で殆んど失われた。この記
述は久松三助清秋のもので、後年の長谷川文書と共に、須
崎では貴い文献である。
サンマより大善寺山に改葬移転した墓碑も、子孫断絶と
共に一ケ所にまとめず分散放置したため、この三郎兵衛そ
の他の墓石も失われた筈だが、残ったものでも前記の系請
が出来た。
さて、「播磨屋橋」は誰が架設したか。
恐らく三郎兵衛が最初に架橋し、亥の大変で流失、二代金
助、三代藤之丞時代に架橋して、四代金八恒実以後は絶家
となったと思われる。
「三代続く長者なし」栄枯盛衰常ない世の荒波に四代を
以て終り、立派な墓石が昔日の盛□を無言の内に物語って
いる。
大津浪で殆んどの文献を失ない、享保七年以後の発生寺
過去帖が商家の文献である須崎浦で、津波前の有力商家
(屋号のある家)として特筆すべきである。
亥の大変で流失した橋が播磨屋の誰かにより、復元せら
れたと思うが安政元年寅の大変も現幼稚園の場所にあった
当時の庄屋川淵専平邸の地上六尺(一・八二米)の所迄水
が来たと文献にある以上、百米足らずの下流である現地の
木橋は多分流失か大破したと思う。
宝永津波より安政津波迄百四十七年の年月は木橋故、度
度架け代えたり修理しただろう。
寅の大変で流失若しくは大破したと思われる。この橋が
播磨屋の架橋したものか、それ共当時の庄屋により公費で
架橋したかは明らかでないが、村誌に「播磨屋橋」と記さ
れている以上、この家がいつの世にか架橋したものを後世
に伝えるものとして、注目に値する。