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項目 内容
ID J0900619
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔須崎の屋号―宝永津波以前の須崎浦商家〕○高知県
本文
[未校訂]「須崎史談 二八」
 鍛冶橋の前身播磨屋橋架橋の播磨について
三郎兵衛は『陋巷浅説』によれば、宝永元年甲申年、山本
藤兵衛、吉岡屋善兵衛その他大浜氏子の有志で多の郷加茂
神社の御輿を寄進している。
 従って宝永津浪前既に播磨屋の屋号で、須崎浦屈指の商
家だった貴重な文献である。須崎浦の貴重な文献、史料は
宝永四年丁亥十月四日亥の大変で殆んど失われた。この記
述は久松三助清秋のもので、後年の長谷川文書と共に、須
崎では貴い文献である。
 サンマより大善寺山に改葬移転した墓碑も、子孫断絶と
共に一ケ所にまとめず分散放置したため、この三郎兵衛そ
の他の墓石も失われた筈だが、残ったものでも前記の系請
が出来た。
 さて、「播磨屋橋」は誰が架設したか。
恐らく三郎兵衛が最初に架橋し、亥の大変で流失、二代金
助、三代藤之丞時代に架橋して、四代金八恒実以後は絶家
となったと思われる。
 「三代続く長者なし」栄枯盛衰常ない世の荒波に四代を
以て終り、立派な墓石が昔日の盛□を無言の内に物語って
いる。
 大津浪で殆んどの文献を失ない、享保七年以後の発生寺
過去帖が商家の文献である須崎浦で、津波前の有力商家
(屋号のある家)として特筆すべきである。
 亥の大変で流失した橋が播磨屋の誰かにより、復元せら
れたと思うが安政元年寅の大変も現幼稚園の場所にあった
当時の庄屋川淵専平邸の地上六尺(一・八二米)の所迄水
が来たと文献にある以上、百米足らずの下流である現地の
木橋は多分流失か大破したと思う。
 宝永津波より安政津波迄百四十七年の年月は木橋故、度
度架け代えたり修理しただろう。
 寅の大変で流失若しくは大破したと思われる。この橋が
播磨屋の架橋したものか、それ共当時の庄屋により公費で
架橋したかは明らかでないが、村誌に「播磨屋橋」と記さ
れている以上、この家がいつの世にか架橋したものを後世
に伝えるものとして、注目に値する。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 522
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 須崎【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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