[未校訂]宝永四年(一七〇七)の津波 土佐―高知県の近世以後の大
地震―津波は左表の通りであ
る。
年代慶長九(一六〇四)宝永四(一七〇七)安政元(一八五四)昭和二一(一九四六)
地震津波名称慶長地震津波宝永地震津波安政地震津波南海地震津波
慶長地震については奥宮正明の「谷陵記」に、被害状況の
数字―溺死人―がある。室戸岬以東―阿波方面にかけて甚
大のようである。記録者は崎浜(東洋町)の僧暁印と云う
ので、あるいは室戸岬以西は落したかもわからないが、と
にかく土佐市地域については伝えるものはない。
宝永四年(一七〇七)十月四日の地震津波については、
前記「谷陵記」に詳細である。うち土佐市地域の分を抄出
しよう。
仁淀川の潮八田村の渡場迄、新居亡所潮は山迄、山腹の
家少し残る。宇佐亡所、潮は橋田の奥、宇佐坂の麓、萩谷
口迄、山上の家一軒残る。在家の後の田丁へ先ず潮廻しけ
る故、通路を失なひ溺死四百余人、渭浜在所悉く海に没
し、深さ五尋六尋あるなれば別に記事なし。福島上に同
じ、溺死百余人、龍亡所、青龍寺客殿計り残る。蟹が池海
に没す。井尻亡所。
この記事は津波関係ばかりであるが、これは海岸地域での
津波の怖しさを示すものである。稲尾実「三災録」には、
後の安政の地震津波に井尻浦の浪人山中久兵衛が、家に伝
わる宝永の地震津波の経験から、浦人に逃げることを勧め
て助かったものが多かったとある。柏井貞明の「柏井氏難
行録」「白湾藻」には、宝永の恐しい津波の模様を
忽然として潮足下に溢れ、其の色黒くして煤のごとく塵
介小砂を巻き出し、其の水先電光のごとく忽ち津波溢れ
来る。其の声雷霆の地に落つるがごとく、逃げ行く数十
人の人の声はただわあ〳〵というて蚊のみ(虻力)のごとく(後
略)。
南海地震の津波を経験された方は、なおなお記憶に新しい
ことであろう。「谷陵記」の「亡所」とあるのは、津波で
集落が全滅したということである。もちろん地震の被害も
内陸方面にあったが、津波に比較すれば雲泥である。近世
前半期水産業の繁栄に支えられて、急速に発展した宇佐浦
町等は壊滅的な打撃を受けたものである。井尻の山中氏が
記録を残して子孫を戒めたのは自然であろう。
「青龍寺過去帳」には、この災害に命を失なった人を宝
永四年(一七〇七)十月四日の忌日でまとめている。宇佐
全体の一部であるがたとえば左の通りである。
妙林信女 同浦(福島)久助妻
同年(宝永四年)十月 久六母
いまこれを集計すると左表となった。
浦名福島井尻渭浜宇佐合計
人数四三三一八一六五
男女別男女合計
人数一九四六六五
福島が波頭を受けて最大の被害を受けている。龍に死者が
ないのは不思議であるが、岬に近いために波が低かったの
であろうか。また女子が男子の三倍近い死人を出してい
る。あるいは自然かもわからないがまた恐しい数字註1であ
る。
藩は救済と復興のため、その時代なりに救い米の支給あ
るいは材木の給与、復旧工事援助等に努力しているが、そ
の復興は容易ではなかった。津波後七十年をへた安永七年
(一七七八)、この地方を巡視した谷真潮は「東西廻浦日
記」で、渭浜、福島両浦を総括して「両浦とも亥の大変
(宝永地震津波)前よりは人高減じ、大方にとどき居ても
とかく減りて其の時分にとどかずと云う」と記している。
復興は容易ではない。藩の保護には応急以外にほとんどた
よらずに自力復興である。前述「青龍寺要録」によれば津
波後十年の享保二年(一七一七)には、荒廃した龍で耕地
の復活が進んでいる。すなわち「大変已後百姓中我儘(勝
手)に開添え夥しく所務(収入)仕り」となる。これは
「宝永四(一七〇七)亥の年大変已後[都|すべ]て流失」して荒廃
した土地である。自然の災害も強いが、人間の努力はこれ
を超えてまた強いものでもある。
註1、非常の事態で弱い者に犠牲の強いられることは、
たとえば飢饉等でも女性は男性の約二倍が飢えてい
る。「今辰の年即餓人差出」「赤松家文書」。