Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0900601
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔高知市誌〕▽
本文
[未校訂]六代 豊隆公
宝永四年十月四日大地震あり、国中、被害多く死者千八百
余人に及ぶ、高知市内は海嘯数回侵入して非常の惨害を受
けたり、因て幕府に請て明年参勤の礼を免ぜられ、又国中
に令して万事省略の令を発す、花鉾を禁止せしも此時の事
なり。
宝永四年十月四日、未ノ上刻(午後二時)より土佐国中大
地震起り、郡市の官舎民屋多く転倒して人畜の死傷算なく
惨状を極む、同下刻(午後三時)より海嘯襲来して海辺の
家屋人畜流亡するもの数を知らず、寅の刻(午前四時)ま
での間に昼夜十一回に及び、就中第三回の海嘯最も高くし
て惨害非常なり、此時高知市中は高二丈の海嘯松ケ鼻を打
越し巴塘を決潰して新町、下知方面より侵入す、其勢実に
凄しく、暫時にして西は小高坂、井口、北は久万、万々、
泰泉寺の山根に及び、市内は真如寺橋より北へ見通し限
り、江ノ口川筋は常通寺橋限り、一望渺茫たる大海原とな
る。就中下知、新町方面は巴塘決潰の鋒先に当りしを以
て、水勢猛烈を極め損害特に多く。以後十数日間は潮水減
退せざりしといふ、此震災の損害土佐国中を通じて流家一
万余戸、潰家四千八百余戸、死者千八百余人に及び高知市
内の潰家のみにても二千百二十九戸に及ぶといふ而して市
内の流家及死傷人員等は不明なり、是を宝永の大変とい
ふ、因に記す下知の宝永堤は此震災後に築きしものなり。
細工町
昔は横町西側に大超寺といふ寺院あり、一豊公入城当時の
建立にして称名寺の末寺なりしが、元禄の大火に焼失して
新町寺町に移り、後、寛永年間又小高坂に移りしが廃寺の
時代詳かならず。
○右の記事中、寛永というのは元禄より古い年号である
ので、宝永の誤りと考える。
鉄砲町
鉄砲町四町五町の間、東西百十四間、南北百七十一間の地
は、元禄十一年大火災の後、市中の寺院を再興して此所に
集合し新寺町と名づく、当時寺院の数十八ケ寺あり、後僅
に九年を経て宝永四年大震の時海嘯の為破壊流亡して再興
しがたきにより、寺院は小高坂村・新寺町及潮江等に退転
せり。
真宗寺(真宗本願寺派)
浦戸町に在り、当寺は元土佐国吾川郡浦戸村に在り、(中
略)元禄十一年城府火災の際に類焼せるを以て土佐郡新町
に移る、宝永四年地震潮溢の災ありて堂宇庫裏悉皆流失せ
るに、再び浦戸町に移す、享保四年堂宇再建(檀家の作事
とす)安政元年地震火災あり市街延焼堂宇亦焼失、安政四
年仮堂並庫裏を建設すと云ふ、
遍照寺(真宗本願寺派)浦戸町に在り、
本尊は阿弥陀仏なり、本寺は古来屢々水火の災に罹りて旧
記なく縁起詳ならず。
善法寺(日蓮宗)
潮江土居西森に在り、本尊は釈迦多宝なり、開基年暦不詳
旧と材木町に在り、元禄十一年焼亡同十二年第四世日習代
本寺要法寺第十一世日受高知新町に移し再興宝永四年十月
四日地震潮溢れて流込第五世雅円院代同八年五月本寺要法
寺十三世日純今の地に移し再興す、現時は只寺号を存する
のみ。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 512
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 高知【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.004秒