[未校訂]六代 豊隆公
宝永四年十月四日大地震あり、国中、被害多く死者千八百
余人に及ぶ、高知市内は海嘯数回侵入して非常の惨害を受
けたり、因て幕府に請て明年参勤の礼を免ぜられ、又国中
に令して万事省略の令を発す、花鉾を禁止せしも此時の事
なり。
宝永四年十月四日、未ノ上刻(午後二時)より土佐国中大
地震起り、郡市の官舎民屋多く転倒して人畜の死傷算なく
惨状を極む、同下刻(午後三時)より海嘯襲来して海辺の
家屋人畜流亡するもの数を知らず、寅の刻(午前四時)ま
での間に昼夜十一回に及び、就中第三回の海嘯最も高くし
て惨害非常なり、此時高知市中は高二丈の海嘯松ケ鼻を打
越し巴塘を決潰して新町、下知方面より侵入す、其勢実に
凄しく、暫時にして西は小高坂、井口、北は久万、万々、
泰泉寺の山根に及び、市内は真如寺橋より北へ見通し限
り、江ノ口川筋は常通寺橋限り、一望渺茫たる大海原とな
る。就中下知、新町方面は巴塘決潰の鋒先に当りしを以
て、水勢猛烈を極め損害特に多く。以後十数日間は潮水減
退せざりしといふ、此震災の損害土佐国中を通じて流家一
万余戸、潰家四千八百余戸、死者千八百余人に及び高知市
内の潰家のみにても二千百二十九戸に及ぶといふ而して市
内の流家及死傷人員等は不明なり、是を宝永の大変とい
ふ、因に記す下知の宝永堤は此震災後に築きしものなり。
細工町
昔は横町西側に大超寺といふ寺院あり、一豊公入城当時の
建立にして称名寺の末寺なりしが、元禄の大火に焼失して
新町寺町に移り、後、寛永年間又小高坂に移りしが廃寺の
時代詳かならず。
○右の記事中、寛永というのは元禄より古い年号である
ので、宝永の誤りと考える。
鉄砲町
鉄砲町四町五町の間、東西百十四間、南北百七十一間の地
は、元禄十一年大火災の後、市中の寺院を再興して此所に
集合し新寺町と名づく、当時寺院の数十八ケ寺あり、後僅
に九年を経て宝永四年大震の時海嘯の為破壊流亡して再興
しがたきにより、寺院は小高坂村・新寺町及潮江等に退転
せり。
真宗寺(真宗本願寺派)
浦戸町に在り、当寺は元土佐国吾川郡浦戸村に在り、(中
略)元禄十一年城府火災の際に類焼せるを以て土佐郡新町
に移る、宝永四年地震潮溢の災ありて堂宇庫裏悉皆流失せ
るに、再び浦戸町に移す、享保四年堂宇再建(檀家の作事
とす)安政元年地震火災あり市街延焼堂宇亦焼失、安政四
年仮堂並庫裏を建設すと云ふ、
遍照寺(真宗本願寺派)浦戸町に在り、
本尊は阿弥陀仏なり、本寺は古来屢々水火の災に罹りて旧
記なく縁起詳ならず。
善法寺(日蓮宗)
潮江土居西森に在り、本尊は釈迦多宝なり、開基年暦不詳
旧と材木町に在り、元禄十一年焼亡同十二年第四世日習代
本寺要法寺第十一世日受高知新町に移し再興宝永四年十月
四日地震潮溢れて流込第五世雅円院代同八年五月本寺要法
寺十三世日純今の地に移し再興す、現時は只寺号を存する
のみ。