[未校訂]一[下知|シモヂ]村
高知市の東に続く村なり、村中に新町・農人町・常磐町・
稲荷新地等の字ありて、戸数七百、人口三千七百十四人
を有せり。此の村の境域は江ノ口川を跨りて其の南北に
及べり、旧は村名を塩田村と唱へて、人家は江ノ口川の
北なる比島に至る中堤の外にありしが、宝永四年の大地
震に潮汐浸入せしかば、遂に新町・古寺町の跡に移れり。
当時古寺町といひしは、新町の東に接続する地にて、寺は地震後潮江、小高坂等へ退転しける其跡地なり。さて下知とい
ふ村名を考ふるに、此の村は往昔上知寄・下知寄の二つ
に分れたりしものの如く、而して上知寄といふは、市
の農人町と田淵との間に深くさし入りたる辺なりしと
思はるゝなり、今市の小学校のある南の方は、昔は知寄
ケ淵といひて深き淵なりといひ伝へたり、此の所より流
るゝ溝渠を今も知寄川といふは、昔の名残なるべし。此
の地に対へる下知寄といふは、中堤辺より東一円をいひ
しなるべし。享保四丁亥年九月、畝丘樹下神社の棟札
に、下知塩田村庄屋総中とあるによりて思ふに素下知寄
の地に村を開きしにより、下知塩田村ともいひしなるべ
し。其の後延享の頃までは、塩田村の村名物に見えた
り。単に下知とあらためしはいつの頃にか有けんさだか
ならねど、或は宝永の地震の後、塩田村を古寺町に移せ
し時の事ならんか。さて下知といふは、下知寄を下略し
たるものなるべくおもへど、知寄といふことはいかなる
意味にやあらん、今は考へがたし。此の村の北、鉄砲町よ
り南三ツ頭に貫く中堤は、宝永の地震の後、正徳元辛卯
年に大に修築せしものにて、宝永堤と称す。正徳に築造せしものなれ
ば、正徳堤と云ふべきを、宝永堤と名づけんは、地震の記念の為に名づけしものならんか。此の地震に外輪堤も
悉皆破壊せしが、正徳元年、大土功を起し修築せり。其
の普請算用牒によれば、此の村の為、六郡幡多郡は除之に割付
し人夫、実に弐拾五万九千三百六十三人三歩の多きに上
れり。而して此の内にて寺町内堤より東角折廻り、南渡
場より農人町番所迄、延長合千九百九十二間、横平等四
間、高平等一間四寸五歩、土壱万弐千五百五十坪、地取
并船土とも、取役土場拵役とも、坪に平等十二人九歩
余、土功の大なりしを想ふべし。