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項目 内容
ID J0900599
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔高知県史要〕
本文
[未校訂]一[下知|シモヂ]村
高知市の東に続く村なり、村中に新町・農人町・常磐町・
稲荷新地等の字ありて、戸数七百、人口三千七百十四人
を有せり。此の村の境域は江ノ口川を跨りて其の南北に
及べり、旧は村名を塩田村と唱へて、人家は江ノ口川の
北なる比島に至る中堤の外にありしが、宝永四年の大地
震に潮汐浸入せしかば、遂に新町・古寺町の跡に移れり。
当時古寺町といひしは、新町の東に接続する地にて、寺は地震後潮江、小高坂等へ退転しける其跡地なり。さて下知とい
ふ村名を考ふるに、此の村は往昔上知寄・下知寄の二つ
に分れたりしものの如く、而して上知寄といふは、市
の農人町と田淵との間に深くさし入りたる辺なりしと
思はるゝなり、今市の小学校のある南の方は、昔は知寄
ケ淵といひて深き淵なりといひ伝へたり、此の所より流
るゝ溝渠を今も知寄川といふは、昔の名残なるべし。此
の地に対へる下知寄といふは、中堤辺より東一円をいひ
しなるべし。享保四丁亥年九月、畝丘樹下神社の棟札
に、下知塩田村庄屋総中とあるによりて思ふに素下知寄
の地に村を開きしにより、下知塩田村ともいひしなるべ
し。其の後延享の頃までは、塩田村の村名物に見えた
り。単に下知とあらためしはいつの頃にか有けんさだか
ならねど、或は宝永の地震の後、塩田村を古寺町に移せ
し時の事ならんか。さて下知といふは、下知寄を下略し
たるものなるべくおもへど、知寄といふことはいかなる
意味にやあらん、今は考へがたし。此の村の北、鉄砲町よ
り南三ツ頭に貫く中堤は、宝永の地震の後、正徳元辛卯
年に大に修築せしものにて、宝永堤と称す。正徳に築造せしものなれ
ば、正徳堤と云ふべきを、宝永堤と名づけんは、地震の記念の為に名づけしものならんか。此の地震に外輪堤も
悉皆破壊せしが、正徳元年、大土功を起し修築せり。其
の普請算用牒によれば、此の村の為、六郡幡多郡は除之に割付
し人夫、実に弐拾五万九千三百六十三人三歩の多きに上
れり。而して此の内にて寺町内堤より東角折廻り、南渡
場より農人町番所迄、延長合千九百九十二間、横平等四
間、高平等一間四寸五歩、土壱万弐千五百五十坪、地取
并船土とも、取役土場拵役とも、坪に平等十二人九歩
余、土功の大なりしを想ふべし。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 511
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 高知【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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