[未校訂] 此の大港たる物部川口は堤防の創築並に古川敷埋立と同
時に不用となり棄てられてより、南部は埋まり砂浜となり
て跡方もなきに至り只凹字形の地面と古港の名を存するの
みとなったが、川口としての最終より時代も遠からぬ宝永
四年十月四日の午の刻(正午)全国に大地震あり此時地震
と之に伴ふ津浪の為に各種の被害甚大は勿論で、土佐のみ
にて流失家屋二万余戸あり、浦戸の御殿も災害に罹ったと
いふ時であるが、此の時の津浪の為に当所の凹字形の所が
真先きに海水の浸入乗り越の所となり、たけり狂ふた高き
潮水が怒号して物音凄ましく襲ひ来る勢は何に譬へん様も
なき荒ましさで、元の川口たる関係上忽ち元の港に相似た
る入海と変化した久枝の室岡山が此の時の避難所であった
と謂はる。それよりして年月幾程もなく港口は元の砂浜と
なり例の凹字形の越戸となりて其儘久しき歳月を経過した
が、其後宝永の大地震より百九年目の文化十二年乙亥七月
八日に大洪水あり、所謂亥の年の洪水又は亥の大変と称し
て、河川整理の築堤以来空前の大災害で、片地以南沿岸の
村落は殆んど甞め尽され、多大の損害を被ったことは勿
論、其暴威の為に堤防決潰頗る多く、下流の村落は恰も海
の如く、避難所たる久枝の山は恰も島の如くで、此の横溢
満々たる大水の吐け口が古港の門字形越戸であった。先に
は海水漲流が彼方より襲来し、今回は淡水濁流が此方より
勢凄ましく滔々として奔出する、その結果如何に、遂に又
又元の川尻の如くなり、元の大港の如く変化した。爾後又
又元の砂浜となりて歳月を経過し約百二十ケ年間何等の異
変なく依然古港又は切れ戸の称を存して今日に至ったもの
である。大港に関する旧記の一節を左に抄出す。
今の物部川の外西の方に別に川ありて前浜久枝村の間を
流れて海に入れりしかば其流れの末の弘くなりし所すな
はち大湊にて今の物部川にはあらずよくせずばまがひぬ
べしさるは其川を寛永年間に当国の執政野中殿埋めてそ
の水を今の物部川に落して一派の流しとなし跡を田地と
せしより大港は自然潰れしなるべしさるによりてその港
を古湊と称ひ沙地凹になりてありしを宝永四年丁亥の高
潮に右凹の所の砂打ち流され海と一つになりしがやうや
う沙入れて本の如くなりしを又しも文化の洪水に砂なが
れ港の如くなりしを又やうやう潰れしなりされば大港は
今の物部川よりは西の方にありしなり云々