[未校訂] (前欠)地震ニ悉く倒る御城ハ全シ潮ハ町ハ真如寺橋よ
り北見通し限り江ノ口堀すぢは常通寺橋限り潮江川ハ常通
寺橋限り新町下知ハ海トナル云々又初メ打入シ日より定潮
トナリ聊モ干満ナシ潮江下知新町江ノ口より一宮布師田大
津介良下田衣笠迄一般の海ニナリ舟ナラテハ通路ナシ
(○右の記事のあとに享保十二年(一七二七年)の記事が
続くので右の記事は宝永地震の記事であると推定す
る。)
西頭横堀と下知用水の間に南北する四丁間を井手端或ハ井
手側と称す又東方北鉄砲町より南新町に至るの地元足軽者
居住するを以此もまた鉄砲町と称せしに元禄十一年城下火
災の節回禄にかかる、数寺に地をこゝに給ハり移転せしむ
故にまた新町新寺町とも称す宝永四年地震の後下知下外輪
の堤防破却し潮汐溢するの憂あるより諸寺また各所ニ散移
すと云。尋て潮田村の人戸をここに移すに至れり、此時南
北ニ内堤ヲ築く是ハ宝永(後欠)
新寺町
新町東詰、元禄十一年城下大火之節焼亡にかゝる数寺を此
地に移さしむ依て新寺町と称す、宝永震後諸寺また各所に
転移す、寺院各号等今詳細なりかたし
(頭書別筆)今□名二、大善寺真楽寺長泉寺永国寺等の
名称寺跡□□。