[未校訂]享保甲寅三巳の日
国君参勤として高知の城発駕し給ふ予は船廻りの数につら
なり城東農人町といふ所より船にのりおりし日の黄昏に浦
戸の港に到りぬふねは国君の乗らせ給ふ御船なれは高きい
やしきおのおの一ふねにのり侍りぬおともに旅泊の身にし
おれは千里港遠きを憂ひみなみな往事をのミ語りぬ予か家
族宝永丁亥の年此浦のとなりなる種崎浦にて大地震綱波(ママ)の
変災に逢ひ予綱波の中より希有にして命をのかれし事をい
ふ皆其次第を具に語れとしきりにしいられありしむかしを
思ひ出れはむねふさかり言葉しふりてやうやうその大概を
のふといふ
宝永四年丁亥十月四日家翁病ありて家にあり日午にちかつ
くころ地大に震ひ家転倒せんとす家内男女老たるも若きも
みな後園にはしり出つ予は家翁と共に南の庭に出て門外の
浜に出つ。宅種崎の南門の端にあり外は則海畔なり海中を見れは満たる潮忽かれて
潮薄となり百尋の海底も徒跣にてつたりすへし躰なり東西
海畔およひ市中を見れは平地のふるひ動きてうねとなり谷
となり地の升降する事只大海の浪打か如し家翁老母の事を
思ひ後園にいたらん事を欲して道なし東隣に明屋鋪あり其
境にいたれは垣堅固にして通行を得ず予垣の上にのほり梅
樹の枝をよぢて家翁をしてつゝきのほらしめつゐに後園に
いたる事を得こゝにて家族に逢ぬ地震ふるハ猶やます老祖
母謂曰これなやと云ものなりかゝる折しも藪中に入事也と
て家族を伴ひて北藪の中に入りぬ暫時有て東方海畔の町よ
り呼て曰大浪市中に入みな山にいたるへしと爰にをゐて家
翁五歳になる女子を背負ひ老たる母の手を引予か兄専五郎
此年十二歳ハ母を伴ひ弟三五郎此歳二歳奴婢に命して懐抱きしめ後園
を出んとす家兄転倒之家に入重代の刀を取出これをおひ予
にも腰刀をあたへて一同に西隣同司国裏門沢七右衛門を出仁井田
の山をこゝろさし御座町といふ所に出北にむかひ逃行事凡
十余町其逃行人に稲麻竹葦のことく逃るもの何かわしらず
かなしき声を出しわめきておほえす跡にしりぞく事一町は
かり忽然として潮足下に溢れ其色黒くして煤のことく塵芥
小砂を捲出其水先電光のことく忽綱波溢来其声雷霆の地に
落ることく逃行数千の人の声ハ只わあわあといふて蚊虻の
ことく是東北池十市の海畔より綱波溢来る其音也須臾の間
に綱波頭上をひたし人皆沈溺す予は行手の左なる生垣にの
ほり流れ来れる板戸にのぼらんとして乗得す忽浪中に沈む
浪中にてたれとハしらず人に流れかゝりぬ其人の腰刀をつ
かミとりはつし又とりつきてはなれしと帯にしつかりと取
付ぬ浪中の事なれば誰とハしらずしかるに其人ハ家翁なり
綱波溢行漸潮家翁の肩をひたすはかりに成ぬ其時家翁かへ
りミ見れば老母砂屋のほとりにありて危き躰也家翁おとろ
き其所へゆかんと欲すれ共背中に女子を負ひたりゆかされ
ハ母をうしなふせんかたなく負たる女子を浪中に投捨浪を
しのきかろうして母のもとにいたりぬ破屋にあからんとす
れと潮はむねをはらふはかりにて腰はおもく予かいたきつ
きぬる事ハしらすして塵芥の身をまとうかとわれをして押
はなたんとする事たひたひなり家翁破屋にあからんとして
かへりミ見れは腰なるものは我子也おとろきたすけんとて
地下に足を付れは予ハ又浪中に沈むせんすべなき所に人あ
りて家翁を見付忽来りて先予をして破屋の上に投上け家翁
をもたすけ上らしむ家翁老母のもとに到り老母を破屋の上
堅固の所にいさなひ行て死をまぬかれぬ潮ハ須臾のうちに
引落て平地となりぬ此難に逢し所行手の左ハ船倉のうしろにて堤有亦船有触寄ありそれゆへ海へ流れいてたるなりこ
こにて家内のもの皆散乱して見へす即今甍をならへし数千
の官舎民屋皆流没し庭樹垣墻或流或倒忽白砂となりぬ老母
命を助かりし砂屋ハ其所に蔵と船の弥平次ト云者土蔵也大樹とありてこ
れに流れかゝ里し家也其破屋におされ半死半生のもの五七
人あり家翁これをたすけんと欲して人を集め其家をやぶら
しむといへども大家倒れて棟梁かさなりぬれはたやすく除
かたくして皆眼下に命をおとしぬ家翁及老母家内の行へを
尋見んとてぬれたる衣類をぬき予をしてこれを守らしめ四
方にめくり行く只奴婢二人を尋得たり予母及兄弟の行方し
れすぼうぜんとしてせんすべなし時に又大潮入ると呼るゆ
へ一所に相集り家翁老母をすゝめてとかく仁井田の山に逃
へしといふ老母のいわく是天地滅亡の時来ると見へたり何
地にゆきて死をのかれんや只此所をうこかすして溺死せん
のミと家翁しゐて曰のかるへきほとは遁れ見其行先にてと
にもかくにも成へしと老母をすゝめ肩にかけ予か手を引て
ゆかんとすしかるに予比時纔に九歳綱波に沈て万死をのか
れ身体つかれて一歩も引事を得す家僕三蔵と云譜代之者肩にかけゆか
んとすれとかれも又足立得す綱波入るとよバわれとも一同
にみな足ひかされば其なやミたとへていわんかたなし只管
砂中を一歩はあゆミ一歩はまろひ千苦万労して漸仁井田の
五本松にいたりぬ其時綱波又うち寄浜を洗ひ土砂を崩すさ
れとも此所ハ地高くして潮入来らす荊棘をしのきたとりた
とりてはうはう聖導寺といふ寺にいたりぬ聖導寺真言宗仁井田山下ニアリ
家翁住持に乞て白米一囊を得て母にすゝむ此寺江も潮入来
るとてさわきぬればせんかたなく又山によちのほり浦戸種
崎三畳瀬の浦をかへり見れは数千の家皆流没して白砂とな
りぬ大海を見れば沙浜半里斗の際は赤土をたてたることく
それより滄海の方ハ其色煤のことく神無月の神なれハほと
なく日も山の端に入なんとすとかく寺に下りて庭上に畳を
ならへ居侍りぬ扨浦戸三畳瀬の山上山下に火をとほし親は
子をたつね子は親をよびさけぶ其音たとへていわんかたな
し五日といふになれとももとより朝飯とて喰へしものもな
くやゝ阿りて一人役人申出けるハ大坂へ積登る米船きのふ
浦戸を出帆せし船此大変ゆへ又港に只今漕戻りぬと家翁其
人に命していうよりはやく其米取揚貴となく賤きとなくそ
れそれにわかちあとふべし後難はわか身一人に蒙り申へく
はやくとりはからへとそれよりほとなく俵物とり来清導寺
の庭上にて石をならへ鍋を求てうすつかぬ米を炊けとも飯
とならすされともそれをもてうへをしのきぬ其日の昼過大
津氏務右衛門云ト且譜代家僕喜衛門云ト尋来りぬ大津氏喜衛門高知より仁井田にゆかんとしてふねなし
潮江より西孕山にいたり山内監物永屋々々下りふねを求れともふねなし海畔に一丈斗の宍料あり両人それにとり乗舟として、鳶口をもて櫂として東孕の
磯に漕寄せ其所より山を越清導寺に尋来りぬるなり其後高知御仕置所より家翁国沢氏へ
書状来各存命之段聞伝候弥其所にふミ留り相勤候様ニとの
御奉行所おほせのよしなり其舟使に高橋氏務兵衛ト云尋来けれ
ば老母予ハ務兵衛に附して古郷久万村にかへし家翁は其儘
清導寺に侍りぬ
鳴呼家翁いかなる前世の宿業にや高祖父以来百十有余
年住馴し古郷を離れ此浦に来住する事纔に七年にして
かゝる変災に逢妻子四人一時に流没しぬ任役によ里て住ぬる宅と思へは
君の為に身を致すの忠清(ママ)
とやいふへしなげきてもあま
里ある事なり 柏井貞明録之
吉凶禍福莫非命也而人之所自取亦有不可誣者焉柏井貞寿君
四世之祖実慎君在種崎之官舎宝永丁亥十月四日地大震海嘯
遽至家人四人溺歿君及令堂次子貞明君三人得免後貞明君因
人問海嘯之変叙其事為一巻名曰柏井氏難行録其手沢之書有
故蔵於好円谷先生之家今茲貞寿君切請得之因騰写此巻以報
之請予書其事於巻尾予読之再三毎至実慎君捨所負子而救令
堂之危難及散官粟与飢民曰檀命之罪我任之未嘗不舎書而感
歎也宜哉君之脱万死而救母存子家系永世之基一無所欠及其
所自取非所謂順受其正命者也耶鳴呼君之孝慈如此然而貞明
君以来三世無子皆養家族某子以継家亦非天乎至貞寿君有螽
斯之慶又将使子孫永蔵此書時省不忘此予之所以不辞其請也
于旹弘化甲辰嘉平月竹邨修拝撰