[未校訂] 次いで、宝永四年の大地震は、全国三十余国に地震があ
り、土佐では十月四日昼すぎにおこってから、一時間ほど
して海岸一帯が津波におそわれた。
その時の被害は、
衆中へ米五斗壱石弐石三石数々へ任遺言進上仕、尤かし
付米也、古郷にも四五〆匁計の作式買求被置候せんけの
後甥作人貰由伝承仕候
一常楽寺法印祐応上方関東筋に久敷学文して[滄溟|サウメイ]栄智の僧
也、宝永弐酉年五台山文珠菩薩江戸於護国寺御開帳御免
被仰付、其時五台山法印一所に御供被致候得共、祐応万
端引請住持成代り始終の首尾能相仕廻、一位様よりお(あ)ふ
ひ御紋付の御小袖一重御拝領被仰付難有頂戴被致、文珠
様の御供にて無恙下り、当時がらんの明所なく常楽寺に
被居候内、頼秀別而御懇意に被仰付常々御見舞おこたら
ず、有時ハ常住寺へも年の中一両度も御出御一宿等被成
夜すから昔今の物かたり等被成候、懇意の訳不忘大地震
大浪に一命を抛て比沙門様をたすけ奉る。全我欲有て致
にあらす比沙門天御感納まします、其気天に通し天より
被下千石穂、折も折時も時此期に至て、天子将軍の御用
でも調間敷宝物一偏に天のあたへ給ふに疑なし、此日記
見る人千石穂の一条能々御考味可被下、子孫長久ハ誠を
以立たる道世を渡る人[広|ヒロ]々と[障|サハ]るものなく通るべし、去
に依て祈らす迚も神や守らん御[掟|ヲキテ]難有〳〵
常楽寺祐応後にあしすり山の住職被仰付、其後蒲原に
弟子坊被居此所へ閑居被致候由承る
一其後比沙門天御利生の事聞伝ふる人も在之、旁々より信
死者 一、八四四人
負傷者 五二六人
流失家屋 一一、一七〇軒
倒壊家屋 四、八六六軒
田畑の損害 四五、一七〇石米
牛 一六八頭
馬 三七四頭
流失破損した船舶 七八〇艘
米穀流失 二四、三四二石
水損 六、七六四石
となっている。
この地震で高知以東で隆起一ケ所、以西で陥没二十一ケ
所。室津で一五〇㎝、室戸岬で二〇〇㎝から三〇〇㎝の隆
起をみた。
高知市東部隣接地域ではおよそ二〇平方粁に及ぶ地域が最
大で二〇〇㎝ほど沈下した。
ただし物部川尻にちかい吉原は隆起したという。
安政地震では、宇佐で一二〇㎝隆起し、甲ノ浦で九〇㎝沈
下、高知市東部地域は宝永の時と同じ沈下があったが、や
やちいさかった。