Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0900582
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔土佐山田町史〕○高知県香美郡
本文
[未校訂]安政、昭和の南海地震にも地盤沈下を見た。(高知県天災
年表)慶長地震は山内氏が土佐藩主に封ぜられた直後のこ
とで記録が少い。『谷陵記』によると、地震と津波で、佐喜浜
で五十余人、室戸方面で四百人、甲浦で三百五十人の死者
があったと伝えている。宝永の地震は有史時代に於ける最
大の地震で、高知の浪高は故今村博士の調査によれば、室
戸六、五米、安芸五、六米、種崎二三米、と推定され、特
に種崎付近は避難場所がなかったので、溺死七〇〇人、死
体海に浮んで腐臭忍び難かったといわれる。国中損失流家
一万一千六十七軒、壊家五千六百八軒、破損家千七百六十
二軒、損田四万五千七十石、死傷千七百六十人、(高野文
書)江戸表へ言上。なお高野文書によると「香美郡内の被
害は、手結の津波は山迄打寄せ、山の上に家少し残る。無
双の名木流失惜しむ可し。赤岡、汐は在所残りなし。流家
三ケ一。吉原浜の松並木の外に、古い田出る。一反ばか
り。畔の形顕然たり。宝永四丁亥年十月四日晴天、同日未
の刻大地震。地割家倒れ人々打殺され、目まいして死ぬ
者、山の下に住居の者山崩れで死ぬ者もあり、大津波で家
財悉く流失。怠慢なる者、不達者なる者、或は山遠き者共
残らず大汐に引取られ死す。高知より幡多郡迄の海辺は残
らず流失。高知辺迄一面の大汐、舟にて往来。高知城下よ
り安芸郡まで大汐高く上り田地没す。奈半利の浜に十二三
隻の舟打上げる。野市で汐は吉原の境迄。家少し流れる。
物部三ケ所流失。上田村在家中半まで汐入る。流家なし。
下島、久枝、下田村何れも流失。前浜半流失。」宝永地震
は直接土佐山田町に関する記録はないが、お城下まで舟で
往来したというから、昭和二十一年の南海地震の時と同じ
ような状態であったと思われる。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 501
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 土佐山田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒