[未校訂]安政、昭和の南海地震にも地盤沈下を見た。(高知県天災
年表)慶長地震は山内氏が土佐藩主に封ぜられた直後のこ
とで記録が少い。『谷陵記』によると、地震と津波で、佐喜浜
で五十余人、室戸方面で四百人、甲浦で三百五十人の死者
があったと伝えている。宝永の地震は有史時代に於ける最
大の地震で、高知の浪高は故今村博士の調査によれば、室
戸六、五米、安芸五、六米、種崎二三米、と推定され、特
に種崎付近は避難場所がなかったので、溺死七〇〇人、死
体海に浮んで腐臭忍び難かったといわれる。国中損失流家
一万一千六十七軒、壊家五千六百八軒、破損家千七百六十
二軒、損田四万五千七十石、死傷千七百六十人、(高野文
書)江戸表へ言上。なお高野文書によると「香美郡内の被
害は、手結の津波は山迄打寄せ、山の上に家少し残る。無
双の名木流失惜しむ可し。赤岡、汐は在所残りなし。流家
三ケ一。吉原浜の松並木の外に、古い田出る。一反ばか
り。畔の形顕然たり。宝永四丁亥年十月四日晴天、同日未
の刻大地震。地割家倒れ人々打殺され、目まいして死ぬ
者、山の下に住居の者山崩れで死ぬ者もあり、大津波で家
財悉く流失。怠慢なる者、不達者なる者、或は山遠き者共
残らず大汐に引取られ死す。高知より幡多郡迄の海辺は残
らず流失。高知辺迄一面の大汐、舟にて往来。高知城下よ
り安芸郡まで大汐高く上り田地没す。奈半利の浜に十二三
隻の舟打上げる。野市で汐は吉原の境迄。家少し流れる。
物部三ケ所流失。上田村在家中半まで汐入る。流家なし。
下島、久枝、下田村何れも流失。前浜半流失。」宝永地震
は直接土佐山田町に関する記録はないが、お城下まで舟で
往来したというから、昭和二十一年の南海地震の時と同じ
ような状態であったと思われる。