[未校訂]宝永の地震・津波
さて豊隆が深尾若狭に痛棒を食わし
て、自己の権力を高めようとしたか
に見える以上の事件の後、翌宝永四年(一七〇七)[未曾有|みぞう]の
地震・津波は襲来する。由来土佐は災害の多いところと
して知られている。地震でも古くは白[鳳|ほう]の地震、近くは
安政の地震(後述)がある。そのほか暴風・洪水・火災
はほとんど枚挙に暇もないほどある。まして元禄末以来
ほとんど連続的に災害が集中していた。豊隆襲封の年に
も相当激しい風水害があった。当時の人々を驚かした地
震・津波について『山内氏時代史稿巻六』には『聞出文
盲下』を引用して、次のように述べている。
一宝永四丁亥十月四日空晴四方ニ雲なし。其暑気絶難き
事極暑の如し。午ノ刻ニ至り暫くゆらりゆらりと静に
地震す、夫より次第にゆり出て天地と一ツに成様に家
も蔵も崩れあやも見合せ難し。其ゆる事身も裂るが如
し。大地も微塵にわれ小砂なと沸暫く有亦ゆり、幾度
と云事間なくゆり夫より津浪打入由声々に叫む。上を
下へと返し近辺の山々へ逃走り行や否浪打入国中一同
也。高知辺ハ久万・薊野・一宮・秦泉寺山の根迄一面
の海と成。又引又打入第三番目の浪夥く正面に浪打入
ならハ、高知の地形より二丈も高き程也。然るに浦
戸・種崎の方より打入浪西孕の山端に当り法師崎へ打
むけし時、東下田の江より打込浪と打合ひ勢ひよハ
り、夫より北へ白浪入故高知ヘハ其脇潮入込。されと
も大御門前迄河の様ニ成、其後日数重れ共入込たる潮
帰らす、惣して船に往来す。此内も一昼夜に六、七度
地震す。尤前の様にハなけれとも余程の地震也。大地
ゆるぐと筏などの上に座したる様に地不定動き、そ
の心本なき事演難し、翌年になれば乾く事なく堀端へ
割切堤築往来不自由故、石淵迄之大道高く築かせ被
成陸地通路と成。又春より秋迄大雨間なく、此雨重る
に随ひ地震もへり地のゆふ(ら)つく事も止る。され共三、
四年の間時々地震有。此時分西分地形六、七尺下る。
東津呂・室津ハ上るとや。
いかに大きな恐怖を人々に与えたものであったかは明瞭
であろう。しかも城下町周辺では地盤沈下があり、地
震・津波後も久しく滞水して人々を苦しめたようであ
る。しかしながらこの地震わけて津波が、海岸地方に与
えた災害は古今未曾有であった。城下町周辺をはるかに
こえるものであった。いま『孕石家秘録』(『土佐国群書
類従巻三六』)から抄出すれば、
一流失家壱万千百七拾軒
(内民家壱万九百六十三軒)
一潰家四千八百六十六軒
(内民家四千七百三十軒、内二千二十二軒は城下町)
一破損家千六百四十九軒
(内民家千五百九十八軒 内千五百二十三軒浦分)
一死人千八百四拾四人
(内男五百六十二人 女千二百八十二人)
一過人九百弐拾六人
(内男八百九人 女百十七人)
一流死牛馬五百四十弐疋
(内牛百六十八疋 馬三百七十四疋)
一過牛六疋
一流失米穀弐万四千弐百四拾弐石
一濡米穀壱万六千七百六拾四石
一流失塩四百八十石
一流失茶三百三十斤
一流失鰹節五十万八千節
一流失并破損ノ船七百六拾八艘
一流失網四百三拾九帖
一流失材木五万四千六百本
一浦々塩焼道具不残流失
一流失保佐・松節共六百八十三艘荷但壱艘十端帆ノ積
一流失起炭弐拾艘荷但右同断
一損田四万五千百七十石(四千五百十七町・筆者)
一井関・川除堤破損四千百九ケ所
一流失板橋百八十八ケ所
一流失筧九十弐艘
一流失井留六十七艘
一亡所浦六十壱ケ所
一半亡所浦四ケ所
一亡所ノ郷四拾弐ケ所
一半亡所之郷三拾弐ケ所
一山分山崩畑作ノ雑穀類大分損失
一湊三ケ所大破其外御国中往還ノ道筋及破損往来不自
由之所数ケ所
なお『南路志巻七三』によれば、災害の甚だしかった種
崎では水死七百余人、宇佐では同四百余人、須崎では同三
百余人、久礼では同二百余人、また亡所浦はとくに幡多郡
に多く、計四十五浦、これは九十五の亡所浦、郷の半ばに
当たる。壊滅的な打撃を受けたものである。なお浦方荒廃
の意義については後述する。
驚いた藩では直ちに善後策を講じるとともに、重臣山内
主鳴(後述)を江戸に派遣、老中土屋相模守にたよって事
情を説明し参勤交代を免除される。『山内家文書』(前掲)
宝永五年(一七〇八)によれば老中等もしごく同情、「兎角
御参府御免不被成候而は御国成立申間舗と思召、此段
[具|つぶさに]被達上聞今年御参府御免被仰付」たものである。
ところが豊隆は『同史料』によれば、参勤免除の奉書を受
け取って「未三ケ月も過不申候処ニ御参府之儀御願被
成」て江戸方面の藩の役人を困却させている。豊隆は参勤
免除について便宜を図ってくれた土屋相模守には、この点
さすがに申し出でにくかったのか他の要路の大官に運動
し、これがまた在府役人を困らせる。結局は次の『山内家
文書』(前掲)の
一筆啓上仕候先以 公方様 大納言様益御機嫌能可被
成御座恐悦奉存候。随而御自分様弥御堅体御勤可被
成珍重奉存候。然は去冬領国就損亡今年参勤御免被
仰出難有仕合奉存候。緩々在国仕国用大形手合仕偏
御威光之程難有奉存候。然は私儀継目被仰付入国以
後初而之参府不仕、久々御機嫌之程於遠国奉承知迄
之御儀時変之不幸乍恐心外奉存候。誠以存掛も無御
座御結構被 仰出候上却而恐多奉存候得共、万端致
手軽当年中参勤仕奉伺御機嫌度奉願候。次ニは病
身至極之老母御座候。見合保養相加度奉存候。随而当
地潮に今透と引払不申湿深病人多御座候。拙者儀自然
病気附候而は遠国ニ而医師不自由ニ御座候。然共此数条
ハ内証之儀故全願申ニては無御座候得共、御手前様之
儀故申上候。旁被届聞召参府仕候様ニ被仰付候ハ
ハ、重々冥加至極奉存候。何分ニも宜様ニ奉頼候。比段
為可申上如是御座候。尤別紙口上書ニ委細申上候。
恐惶謹言
月日
(宝永五年)この書状案は豊隆の悪評をさらに裏付けるものである。襲
封最初の参勤、あるいは母の病気見舞ともっともらしい理
由を付けているが、あの大災害がこのような短期で、「大
形手合仕」るはずはない。右の文書を布衍した他の文書で
は、「国端迄介補仕破損所も大概修補仕、漁民農民迄次第
ニ成立飢寒之ものも無御座手船等も過半出来」と驚くべ
き報告をしている。土佐藩政史上にいわゆる名君の少ない
ことを嘆ぜしめるのも、まさに豊隆に窮まると言うことが
できるようである。
改革の実行さてそのような常軌を逸したと考えられる
豊隆の行動とは別に、藩政担当者には「御
国之破損中々弐拾年参拾年ニ而如元ニハ成申間敷」(『山
内家文書』)との認識があった。かくて同じ宝永四年(一
七〇七)八月には、次のような藩政改革の方針が打ち出さ
れる(『憲章簿官掟之部』)。藩政担当者の態度はいちおう
正常であったと言うことができる。ここで彼等が打ち出し
た大綱は、厳略を断行して収納米でもって藩の経費を賄う
こと、領民に節約を呼びかけること、地下役人の奮起を促
すことにあったが、全文は
龍泉(豊隆)院様御勝手御切替被遊節御郡奉行御演舌書之事
覚
一近年御上御不如意積年凶年打続御不勝手弥増、依右
ニ御国御安危ニも被為懸を以御前ニも甚以御気毒
ニ被思召、無御先例御会所御評定場へ直々御成被
遊御政事被為聞召 御自身様御辛苦被遊段下々
奉拝承候而ハ奉恐入儀ニ候。就右ニ諸御奉行中
へ直々被仰渡候は、何卒御国収納米を以江戸、御国
共御勝手向相続候様ニ被仰出、次ニ右不足所ハ諸役
手ニおひて諸遣之品何ニ不寄尽ク四割五分減り被仰
付候事。
一積年凶年郷中より諸訴方繁ク、第一御救米奉願時々
御救手ニ被為合かたしといへとも、至極行附及餓
命候者ハ少宛御救被仰付、然とも御上ニ縮り(ママ)候而は
夥敷儀ニ候。右之通之御不如意至極之御上右等之費不
安儀、然といへとも凶年之儀は上下共不及力ニ、只
百姓共も世之中よく候時節後難を慮り、可成御上江
御苦労不奉掛様ニ相働可申事ニ候。
一近年御国中庄屋共御威光薄く支配下百生ともすそば
りニ罷成、庄屋之下知ニ不随公事訴訟申出、庄屋手
前ニおゐて是非を相正し為申聞候而茂我儘を申承引
不致、非分を申募り所及騒動縮ル処は地下衰微、
剰御上江御苦労奉懸不届至極ニ候。畢竟近年庄屋共
引受薄ク右之通ニも相成事ニ候。夫レ不而巳地下ニお
ひて相落し置候而茂、御内分御聞合と唱諸役手より壱
人、弐人ほとづゝ郷中を被差廻、内分御聞立庄屋一
己之了簡を以相済候事も脇々より御聞出シ被仰付候
得は、理も非分之様ニ相聞、依怙ひいきケ間敷抔と御
聞込不存寄御科被仰付族も事時有之候ニ付、右後
難を恐れ小事をも時々役手へ申出御用繁弥増ニ罷成
候。右等も此度御詮議之上、先年之通庄屋共手前ニお
ゐて何篇ニ不寄取治メ可申、全已後右等之儀ニ付、
御上より御穿鑿不被仰付候間厚奉引請可相改
事。
一庄屋は其所之長ニ候へは不寄何篇ニ諸事支配方厚
相心得筈ニ候間、蹈込相勤可申事。
一先年より如被仰付置候庄屋は、一郷一村御預ケ
被仰付儀候得は、庄屋宅ハ御郡方御会所ニ而候間、
此段百生共相心得、不埓之仕形或ハ法外之仕形於有
之は屹度可被仰付候事。
一公事訴訟は庄屋・老承合何分とも取治メ可申候。万
一理非難分ケ事品は組合之庄屋・老立会可相済
候。其上ニ而も百生共申募り理非相分ケ候儀も色々と
申族ハ、批判書相添可差出候。於公義庄屋了簡之
通御詮議之上被仰付筈ニ候。尤時宜ニ随ひ打擲等仕
差許ス輩ハ庄屋之了簡ニ可有之事ニ候。
一諸御法度今以無相違候間弥入念可申附候。然ニ近
年前々より被仰付置候ケ条之中御差免も有之抔と
申触候由、甚以不届至極ニ候。全御差免と申儀は無
之候間、末々迄心得違無之様ニ入念可申付候。
宝永四丁亥年八月六日御郡方
前述のように右の第一項が藩主の決意であり、第二項が農
民に対する節約の要請であり、第三項以下が庄屋への呼び
掛けである。おそらく支配の役職にしたがって第二項以下
は多少違っていたことであろう。前項は郡方より出された
のであるから、農民、農村庄屋向けの比重が大であると考
えられる。もちろん大綱には相違はなく、大震災の復旧に
懸命となった藩の態度と受け取られる。とくに庄屋の役職
の重大性を強調し、彼等の奮起を強く要望していること
は、地方支配が元禄以後困難を増している事情を示すもの
である。したがってこの時点における農民と農村の変質に
触れなければならないが、これは後述に譲ることとし、以
下実際に改革はどのように具体的な政策をもって進められ
たかを見ることにしよう。(後略)