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項目 内容
ID J0900341
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔郷土むかしばなし〕○三重県尾鷲▽
本文
[未校訂]千人以上の死者 宝永の津波
 宝永四年(一七〇七)十月四日に、富士山が噴火した関
係で、正午、尾鷲地方一帯に大地震が起こり、山が崩れ家
や土蔵・石垣などもほとんど崩れました。それから一時間
ばかりたつと、大津波が押し寄せて来たのです。
 津波は市街地の中央部まで押し寄せたので、流失した家
屋は多数にのぼりました。
 中井浦で二百六十四軒、林浦百三十四軒、南浦百二十五
軒、矢浜五十三軒、九木は浜通りの五十三軒、行野大曾根
は十二軒で、尾鷲組の流失家屋は六百四十一軒にも及びま
した。
 宝永七年に幕府の巡見使が視察にきましたが、そのとき
流失は六百四十一軒で、流死者は五百三十人と報告してい
ます。
 これらの死者は、すべて馬越墓地に葬られたが、それか
ら七年を経た正徳四年に、野地町良源寺の和尚が供養碑を
たてました。
 良源寺は尾鷲駅前にありましたが、明治になってから廃
寺となり金剛寺へ合併されました。
 この供養塔の碑文を書いたのが海山町永泉寺の和尚で
す。永泉寺は本山永平寺の直末寺で、和尚は当地方の長老
僧でした。この碑文によると、溺死者は千余人となってい
て報告の死者の二倍になっています。
 この数字の喰い違いは不思議に思えるが、これは零米(m)地
帯の堀北浦が全滅に近いほどの被害でしたので、津波から
二年半あとに巡見使が視察にきたときには、堀北浦被害の
実態がつかめなかったのです。
 それが七回忌に碑が建てられたときには堀北浦の被害状
況も判明したので、合わせて流死者千人余となったので
す。
 紀州藩では、この救済に全力をあげましたが、津波の被
害は甚大でしたので、二年たったあと自力で家を復興した
ものは、わずか百二十三軒、あと五百十軒は粗末な小屋の
まま、苦しい生活を続けていました。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 295
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 尾鷲【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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