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項目 内容
ID J0900338
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔尾鷲市史 上〕○三重県
本文
[未校訂]津波尾鷲地域の災害で特筆すべきものは、宝永四年
(一七〇七)と安政元年(一八五四)の津波であ
った。「見聞集」と「見聞闕疑集」とは内容的に大同小異
で、宝永四年の津波の記はまったく同じといってよい。
「見聞集」は「見聞闕疑集」を基とし、写されたものであ
ろう。宝永四年一〇月四日、昼一二時ごろ大地震が起こ
り、山が崩れ、家や土蔵・石垣などもゆれくずれ、それか
ら[半時|はんとき](一時間)もすぎて津波が襲ってきた。「見聞闕疑
集」は「潮夥敷わき出」と表現しているが、この形容は実
感であろう。
 高波は林浦・野地村まであがり、尾鷲浦の家や蔵は多く
流出した。宝永七年に幕府の巡見使が来るにあたり、その
前年の一二月に幕府の巡見使に答えるために指示したもの
によると、尾鷲組の流失家屋は、六四一軒・流死人は五三
〇人余となっている。
 正徳四年(一七一四)野地村の良源寺和尚が建てた供養
碑に、船津村永泉寺和尚の文が刻してあるが、それには、
溺死千余人とある。千余人とあるのは多かったことを表現
したのだろう。梶賀・曾根・古江・名柄・水地・大曾根の
各浦村にも、流家があり、賀田村は浜通りは全部流失し、
一一人が溺死した。
宝永4年10月津波による被害表
浦村流失家本屋再建来春再建小屋がけ
九木浦53軒20330
大曾根浦1138
行野浦11
矢浜村538243
林浦13417117
南浦125222101
中井浦264521211
計6411238510
 尾鷲地域の被害状況を御目付・代官が検分し、被災者に
米・味噌・衣類・農具・糸取車などを若山より回送し、と
くに米は在蔵の年貢米を放出して、粥として施行した。こ
のほか藩は年貢の赦免・山海稼ぎの元手金を貸与するなど
救済につとめた。しかし、被害が大きかったため、復興は
容易でなく、二年後の宝永六年一二月でもなお、小屋掛け
のものが五一〇軒もあった。流失家屋が六四一軒あったな
かで復興し得たもの、わずかに一二三軒にすぎなかった。
 尾鷲浦にある御目付役所・御口前役所も流失し、そこに
いた手代・役人らは流死した。被害をまぬがれたのは、野
地村三〇軒・林浦二〇軒余、矢浜村は半分、天満浦は過半、
水地浦は少々、九木浦は浜場が流失し、須賀利浦もその半分
は流失したわけである。大曾根浦の被害は僅少であった。
 宝永の地震と津波は、元禄期に藩財政が困窮におちいっ
ていたのちのことであり、経済界の混乱と、からんで藩財
政をさらに苦しくした。尾鷲地域では、浦方の加子米の未
進などが、累積するようになった。田畑の復旧も資金の欠
乏で進まず、正徳二年頃でもまだその傷あとを残していた。
 念仏寺 朝日町、山号五劫山恩惟院、宋旨浄土宗鎮西
派、京都知恩院直末
宝永四年(一七〇七)十月四日、当地方を襲った大地震・
大津波のため、大被害をうけて一宇残らず流失し、住職九
世中興含誉もようやく本尊を抱えて危地を脱した。
 光円寺 中央町、山号日東山、宗旨浄土真宗西本願寺末
「僧祐山のとき、すなわち、宝永四年(一七〇七)十月四
日大地震・大津波にて押し流され、のち現在地に移る。」
 祐尊寺 朝日町、山号西照山、宗旨浄土真宗西本願寺末
「宝永四年(一七〇七)十月四日大津波にて流失し、住僧
二代円海も流死することになった。」
尾鷲神社 尾鷲市北浦町
宝永四年(一七〇七)十月四日の津波のため宝物文書など
すっかり流失。
八幡神社 北浦町
古来の由緒書など宝永四年十月津波の際流失した。
早田神社 早田町
宝永四年十月の津波に流失のためその由緒はわからない。
三木里神社 三木里町
宝永四年十月の津波に流失したため、享保七年九月社地を
現在地へ移転し造営した。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 293
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 尾鷲【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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