[未校訂]法泉寺 香取
十五世空山の代、乃わち宝永四年十月四日、大地震あり、
本堂その他の建物倒壊したが藩主松平下総守忠雅公の援助
により、七間堂造りの本堂を再建した。
旧記によると次の如く記されている。
「宝永四年十月四日昼九ツ過ぎ、大地震にて、人々肝を潰
し申候町家少々汰り崩す。死人は無之、御城内方々大分破
損に御座候、御領内香取村法泉寺、一色村竜泉寺、高松村
善養寺汰り潰れ申候、方々幅一、二尺長さ五間、十間程ず
つ破れ申候中より青泥吹出し候、志州辺津浪にて人家不
見、尾州立田村にて馬一疋、人一人ゆり込み、馬は頭計り
出し候故、堀り出し申候、人は深さ二丈許りも陥り見え申
さず候、朝明川橋ゆり込み、南北福崎附近殊に強かりし
由、多度はゆり不申、津浪来れども御領内無事なり。」
次代増山正任の時代には宝永地震、大風高波などの地変天
災がしばしばあり、実質藩の蔵入りが減少したので、宝永
六年(一七〇九年)十月十二日に三重郡内および桑名郡内
(新田地域)で一万石余を替地として賜っている。
篠橋――地震水難のため欠け失せ往年の十分の一残、小島
の起畑。
宝永四・六・八 長島史年表(○記録名)各地に陥没多し。
(都司注)六月八日とあるのは日次誤伝であろう。