[未校訂]此の湖(○細江湖)往古応永十二年明応八年永正七年宝永
四年等の震災又は海嘯等の為に淡水変じて潮水となれり
気賀近藤の気賀村領地に付ては左の事実あり(気賀近藤の
他の領土には変りなし)
宝永四丁亥年十月四日大地震の節領分気賀領分海辺之田畑
海に陥り其外亡所に相成依之気賀村全部上知為御代地被下
置(其事後に記す)
旧記を案ずるに気賀村は昔宝永四年十月四日大震災に罹村
内細江湖畔の土地悉く陥没して稲田全く海に変じたれば地
頭は遂に全邑を挙げて之を幕府に上知し他郷に代地を賜は
り以て僅かに其祀を存し農民は為に家産を亡失して復生業
を営むべき途なく殆んど将に離散せんとするの情況に沈
淪し上下悲惨を極むること多年用随の代に至り大に心を民
業に用ひ先つ震災亡所の復興を企画し自ら海面の深浅を調
査し又目標を設けて潮水の干満を試量せしめ計成り図熟し
て之を幕府に請ひ中泉代官大草太郎左衛門の監督を受け邑
内の農民を役して工事を起し夥多の溝渠を作りて泥土を取
り且つ以て舟楫に便し又長堤を築きて潮除を設け又新に河
川を鑿ちて水害の排除を計りし等拮据(ママ)経営具に之を尽し明
和年中に至りて功漸く成り亡所大半起返りしを以て地頭は
其の旧邑を復し農民は稍々其の堵に安んずることを得たり
しが一旦陥没の水田尚低窪にして常に潮水の浸害を蒙り往
往稲禾腐蝕して農民凶歉を免かるる能はず且つ広漠の海面
土功未だ及ばずして空しく葭葦菰蒲の叢生に委棄るの土地
少からず縫殿助深く之を憂へ広く適当の作物を索め豊後の
国産琉球藺の能く潮田に生育するを聞き乃ち府内の城主松
平氏に請ふて其種苗を得以て之を移植したり。
(中略)
而して此の一帯の土地は引佐細江の外洋と相通ずるを以て
変災起る毎に潮水浸入の害を受けたること枚挙に暇あらず
特に明応、宝永等の災害に於ては被害の範囲頗る広く一般
人民の困難せしことは夙に伝説に明かなりとす。
抑々宝永四年大震災の被害は又極めて惨憺たるものなりき
是等の災害と領主近藤氏との関係は今一々之を述ぶるを得
ずと雖常に其の復旧と整理とに全力を傾注せられたるを見
る。
(中略)
我が領主たる近藤用清・用随・用和・用恒・用永・用明等
歴代の地頭は皆能く其の祖先の遺風を紹述し質素勤倹の美
風を確守し牧民の実を挙げたること極めて多かりし就中用
清・用随・用和の三代は宝永四年の大震災にて細江湖岸一
帯及都田川流域凡そ一千八百石余の土地陥落し沃野は忽ち
変じて潮田となり収穫の途全く絶えて民悲惨に泣くの際な
りしを以て用清は代官大草太郎左衛門と相謀り之れが復旧
工事に力を尽すこと殆んど二十年約五百石の田地を恢復し
たり於是曩に震災後上知せる気賀村は此に再び近藤氏の所
領となり特に用随は其の後を紹ぎ堤防を築きて潮水の浸入
を防ぎ新河を開鑿して河水の漲溢を除き溝洫を穿ちて排水
灌漑の利を謀り舟楫の便を企つる等復旧工事の継続に努力
すること殆んど三十年約八百石の田地を恢復したり用和・
用恒・用永・用明・又相継ぎ孜々として復旧工事の完成を
期し用明の時乃ち弘化元年を以て全く旧態に恢復したり。
宝永震災以後弘化元年に至る凡そ百三十年間我が地頭は其
の心血を此の復旧事業に傾注せられたること此の如し而し
て用随は是等起返りの田地に適合せる琉球藺の苗を豊後国
府内より取りて植えしめたるの結果年と共に漸次隆盛に趣
き現今に至りては遠州表の声価遍く海内に及び本町生産業
の大半は全く斯業の発達に拠るに至れるは是れ皆用随以下
各地頭の賜によらざるはなし。
(中略)
若し夫れ宝永震災以後領主近藤氏歴代の力を此の復旧事業
に輸すことなからんか陥没せる田畝は空しく水底に葬られ
民は其所を得るに由なく必ずや悲惨の境遇に陥りて今日の
有様を呈すること蓋し難かりしならん往を想ひ来を考へ転
た感謝に堪えざるものあるなり。
宝永四年十月四日昼九ツ時地大に震ひ海波高く天を衝き沿
岸良田潮水深く浸入し梁稲繁熟の地空しく蒹葭蒼々の場と
なるもの頗る多し斉藤為久大に之を憂ひ恢復匡済の策を講
す、明和元年領主近藤縫殿之助(活民院殿用随)大坂大番
頭を命せらるゝや扈従大坂に至る在坂中豊後杵筑の城主松
平市之正に面会し談偶々各地の産物に及ふ為久曰く我本国
江涯汀潮水浸入五穀栽培する能はすと市之正曰く我領亦是
に類する地少からす斯く潮水浸水する時は殆ど栽培する植
物在るを見す然れども之に適する唯一の琉球藺ありと為久
大に喜び其苗を請ひ帰国の後庭園の一部に植へ培養甚た力
む既にして漸く繁茂増加せしを以て下民に是を分与せり。