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項目 内容
ID J0805096
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1782/08/23
和暦 天明二年七月十五日
綱文 天明二年七月十五日(一七八二・八・二三)〔小田原〕江戸・関東・甲斐・名古屋
書名 〔神奈川の歴史 上〕
本文
[未校訂]天守閣を綱で引く また天明二年七月十四日の大地震も、
江戸に比べ、小田原の被害はひどかった。小田原の事件を
藩主が年代順にまとめた「小田原大秘録」という本には、
この大地震にあった人の生々しい体験談がのっている。
「時に天明二年七月十四日の丑の刻(午前二時ごろ)
大きな地震があって、十五日の五ツ時前(午前八時ご
ろ)には、ゆり返しがきた。所によっては前夜よりも
強い。住民は、津波を恐れて道にひしめきあい、荷物
を背負ったり、こどもや老人は念仏を唱えながら愛宕
山めざして押し合って逃げた。竹ノ花から大工町あた
りまでは、満足な家が一軒もなく、町中の蔵は七分ど
おり役立たなくなった」
当時のようすがよくわかる。この地震では、天守閣は倒
壊をまぬかれはしたが、東北に三十度も傾いてしまった。
藩の財政が苦しい時であっただけに、復興を任せられたお
かかえ大工の川辺匠太夫は綱で引っ張って元に戻そうとと
っぴな計画を立て、そしてりっぱに成功した。まず、城の
西方にある小峰の丘(現在の競輪場)に、鯱巻(しゃちま
き)を三台すえつけ、そこから天守閣に綱を張り胴体にぐ
るっと巻きつけた。多数の人夫が「エイエイ」の掛け声で
いっせいに鯱巻をまわすと、天守閣は少しずつ動きはじ
め、見事に立ち直った。このような復旧工事は、全国の天
守閣の歴史にもないであろう。
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 848
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 横浜【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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