[未校訂]天守閣を綱で引く また天明二年七月十四日の大地震も、
江戸に比べ、小田原の被害はひどかった。小田原の事件を
藩主が年代順にまとめた「小田原大秘録」という本には、
この大地震にあった人の生々しい体験談がのっている。
「時に天明二年七月十四日の丑の刻(午前二時ごろ)
大きな地震があって、十五日の五ツ時前(午前八時ご
ろ)には、ゆり返しがきた。所によっては前夜よりも
強い。住民は、津波を恐れて道にひしめきあい、荷物
を背負ったり、こどもや老人は念仏を唱えながら愛宕
山めざして押し合って逃げた。竹ノ花から大工町あた
りまでは、満足な家が一軒もなく、町中の蔵は七分ど
おり役立たなくなった」
当時のようすがよくわかる。この地震では、天守閣は倒
壊をまぬかれはしたが、東北に三十度も傾いてしまった。
藩の財政が苦しい時であっただけに、復興を任せられたお
かかえ大工の川辺匠太夫は綱で引っ張って元に戻そうとと
っぴな計画を立て、そしてりっぱに成功した。まず、城の
西方にある小峰の丘(現在の競輪場)に、鯱巻(しゃちま
き)を三台すえつけ、そこから天守閣に綱を張り胴体にぐ
るっと巻きつけた。多数の人夫が「エイエイ」の掛け声で
いっせいに鯱巻をまわすと、天守閣は少しずつ動きはじ
め、見事に立ち直った。このような復旧工事は、全国の天
守閣の歴史にもないであろう。