[未校訂]第二節 地震
△明和大震 明和の地震は津軽には記録有って以来の大
災害であった。殊に青森を中心の外ケ浜地方は最も強かっ
た。地震の書留は工藤家記、平山日記等に詳しい。今平山
日記から大略を抄出する。
明和三年正月廿八日、酉の時大地震、但し古来未聞の大
地震なり。此地震西北より夥しく鳴り来り、直くにゆり
出て、常の地震と違ひ、至って火急にて例へば馬の身ふ
るひの様にて家より逃出候間も無之候。外にて諸方見渡
候処所々の火事、天に満つ、夥しき事なり。其夜明方迄
凡三百二十度ゆり、然れども跡は段々弱く候処、亦二月
八日の日尤も夥しく、元来ゆり動き候家に候間、此の処
にも潰家其処此処に御座候(中略)此地震に付御領内左
之通り
潰死人 千二百二十一人 内十四人弘前 百九十二人青
森 千十五人在方
家数 五千九百二十一軒潰家焼家共、内四十八軒弘前
(焼家ナシ)六百四十四軒青森 内焼家五十軒余 五千
二百十八軒浦々並在方 内八十三軒焼家
鰺ヶ沢、深浦方面は潰家なく、蟹田、今別も潰家無き
由、今別辺大地震に候処其の近所母衣月村あんどんの灯
も動き不申ヨシ
青森及大浜は此の近在の分共大潰レ
板屋野木ハ大潰レ、此の近在半潰レ
飯詰ハ半潰レ、五所川原並此近辺潰レ家少々
とある。此の外黒石領に死人百六十二人、潰レ家四百二十
一軒とあって右黒石之分平内少々之潰家之ヨシと見え、同
地方は被害が少なかった。尚外ケ浜では
代官役所一ヶ所油川 平館並小国御用郷倉二ヶ所潰レ
小国鉱山銅屋一ケ所 右同砂森大工居所一ケ所 右同鉄
子目所一ヶ所
等の潰れた事が見えて居る。上磯方面も他に被害が多かっ
たと思はれる。尚当時外ヶ浜は海波穏やかで油を流した様
であったが振動後間もなく怒濤岸を超え凄惨の状を呈した
と伝えられている。