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項目 内容
ID J0700178
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔江戸時代小田原震災資料〕小田原市立図書館
本文
[未校訂]小田原城天守閣
大正十二年九月一日ノ関東大震災ニ小田原城崩潰ト共ニ古
代ノ地震ノ左記ノ碑出タリ
元禄十六癸未年十一月廿二日夜地震天守城楼回禄翌年春
剏再興之事宝永二乙酉年四月日天守城楼以下迄外郭惣石
壁築成矣於是彫攻干畳石以誌焉
従四位相州小田原城主兼隠岐守藤原朝臣大久保氏長忠増
再営
元禄十六年地震(小田原城)
 貞享三年正月二十一日大久保加賀守忠朝下総佐倉ヨリ来
リテ稲葉家ニ代ツテ小田原城ヲ修補シ市街ノ体面ヲ改メ漸
ク美観ヲ呈シタ。サレド大久保氏ノ封ヲ襲フテカラ十七年
目即チ元禄十六年十一月二十一日再ビ稲葉氏ノ入国同様大
地震ニ際会シタ寛永十年ノ其レニ比スレバ寧ロ甚ダシキモ
ノガアツタ。小田原城ハ火ヲ失シテ城廓全部ヲ烏有ニ帰シ
城下ノ士民家屋悉ク焦土トナツタガ大久保氏再ビ之ヲ修理
シテ城楼市街ノ旧観ニ復シタノハ五年ノ歳月ヲ費シタノデ
アル。然ルニ其五年後宝永四年ハ数回ノ震災アリ終ニ十一
月二十三日ニ至リ俄然富士山ノ大爆発トナリ小田原ノ領邑
大半砂礫ニ埋マレタ天ノ小田原城主及領民ニ災スル何ゾ其
ノ甚ダシクシテシカモ頻繁ナリシカ、天文ト人事ハ元ヨリ
関連スルモノデハナイガ等シク北条家ノ残墟ヲ守ルモノニ
シテ同ジ運命ニ遭遇シ来リタルハ如何ナル宿因ノ有ツタノ
デアラウカ、此ノ一大災厄後ノ百年間ハ二回火災。
元禄十六年十一月二十二日
 夜大地震 慶安二年の武州大地震以来の激震で、総房武
相の広い範囲に亘り殊に相房の海岸は数回の津浪があって
惨害の跡をとゞめたが、小田原城下城内並に附近の被害も
甚しく、小田原は大震の上出火して町は殆んど全滅、死屍
九百七十余、死馬十五匹を数へられた。忠増開基の谷津♠
眼寺に葬った位霊だけでも五百五十余人の多きに上ってゐ
る。大須賀丹右衛門政重が、木擦れの為に火を発して将に
焼けんとする天主櫓に駈上り、大久保家の重宝をとり出し
たのもこの時の事である。箱根山は山崩で荷物の通路が塞
がった。
大久保忠増
 忠増一代の災厄は単にこの地震のみには止まらなかっ
た。元禄の震災に焼け落ちた天守の修築工事が竣って、
宝永三年六月竣工間もなく宝永四年十月四日に復大地震が
あり、京都大坂四国中国から別けて東海は殊に甚しく、前
代未聞の大変であった。
忠朝侯の事蹟(小田原城)
谷津の♠眼寺起因
 今から二百十七年の昔元禄十六年小田原に大地震があっ
た。城主大久保加賀守が下総佐倉から入城してから十三年
目である。先年前城主稲葉美濃守が城廓を修理し、天主閣
を置いて関左の一名城たらしめたが、瞬く間に破壊された
ばかりでなく、藩士の邸宅町家は一軒も残らず烏有に帰せ
しめた。当時の記録によりて此災害で水火の為め又は圧死
したものは老若男女実に四千人の多きに至ったとのことで
ある。忠朝侯は大久保家に取りては中興の祖である復封間
もなく不慮の天災に遭遇したので城櫓の再築は元より第一
四千領民の生霊を如何にして処置すべきかを焦慮した勿論
開府以来三百年も経過した雄藩の後であるから、寺院の数
も少なくなかったが、残らず焦土と化したことゝて、檀家
の死人を取置く処もない、中には一家全滅の不幸に逢ふた
ものも少なくないからに忠朝侯は直ちに命令を発して城北
入谷津の窪地を選定して多数の者の永眠の処に当て、人夫
を徴発して死屍を捜索し、一大坑を穿って埋葬せしめたの
が則ち小田原の回向院で、現今寺名を存する入谷津の♠眼
寺が是であった。
 ♠眼寺建立の起因は全く領主の仁心が流露したもので、
葬られた死者は其帰依する宗派の何たるを問はず一処に埋
めたのは深き因縁である。此震災厄の五年後は各宗寺院に
命じ檀方の人別帳を調査せしめ♠眼寺の過去帳を作らしめ
高僧を招いて所謂八宗兼学の道場たらしめ、永代供養の料
として領主の直轄なる久野村威張山の山林五十三町歩を寄
附して読経の料としたのみならず、宏壮なる殿堂を建立し
て全町市民をして永く此の亡霊を弔はしめたのである。現
(代)在に於ける小田原の市民にして古き祖先が此の♠眼
寺の塋域に眠って居るのだと追想する家族が有るであらう
か、又此の記憶に存すべき元禄十六年十一月二十一日の忌
日を守る人があるであらろうか。
元禄十六年十一月二十二日東山天皇 西一六八四
 小田原大震(武江年表 一話一語 続皇年代記)
 初夜電光大に閃き八ツ時に至りテ声あり、雷の如し。地
大に震ひて窓戸忽ち挫け屋舎総て激浪を漂ふに似たり。地
裂くること二三寸乃至五六尺の所あり、或は砂を吐き水噴
き火を発し、石垣崩れ屋舎倉庫覆る小田原殊に甚だし、為
に人畜の死亡するもの殆んど無数なり。是より地頻りに震
ひ二十四日の夜雨ふり、二十五日の暁に至りて漸く止む。
然れども十二月に至るまで地屢ば震ふ。其各所に於て死亡
せし数は小田原に在りては凡そ弐千参百人、小田原より品
川宿に至るまで一万五千人、安房拾万人、江戸三万七千余

 伊豆方面に於ても震動強く海水陸地に氾濫し、岡田村最
も其害を蒙り、廻船漁船十八艘、男女五十六人、家屋五十
八戸、皆流没に帰すと云ふ。(伊豆海島誌)
元禄十六年十一月二十三日
 小田原城下城内死屍九百七十余死馬十五匹ヲ数ヘラレ忠
増開基ノ谷津♠眼寺ニ葬ツタ位霊ダケデモ五百五十余人
 ♠眼寺 古代ノ巻物ヨリ抜粋セシ元禄十六年ノ死者区分
数左ノ如シ
武家中
小田原城下武家中男女死者
百十七名
竹花町 男女死者 十四名
須藤町 男女死者 七名
台宿町 男女死者 十一名 馬一疋
青物町 男女死者 二十五名
宮前町 男女死者 五十九名 馬一頭
新宿町 男女死者 八名
台町田町 男女死者 十六名
山角町 男女死者 六名
茶畑町 男女死者 十五名
筋違町 男女死者 十六名
欄干橋町 男女死者 二十六名
代官町 男女死者 三名
高梨町 男女死者 二十一名
千度小路町 男女死者 十四名
万年町 男女死者 三十五名
中宿町 男女死者 十二名
古新宿町 男女死者 二十四名
大工町 男女死者 十二名
本町 男女死者 十名
郷中
一色村 男女死者 八名
山王原村 男女死者 一五名
町田村 男女死者 六名
中島村 男女死者 五名
上曾我村 男女死者 八名
御厨水窪村 男女死者 二名
飯沢村 男女死者 六名
高田村 男女死者 四名
内山村 男女死者 八名
板橋村 男女死者 二十一名
寺町 男女死者 八名
荻窪村 男女死者 十名
久野村 男女死者 十名
飯泉村 男女死者 十八名(此ノ内九名ガ中宿ニ加入スルカ□□)
府川村 男女死者 十五名
井細田 男女死者 十五名
酒匂川村 男女死者 九名
聚位
元禄十六年十一月二十二日夜小田原大地震横死者数
小田原町附近(古文書)
光円寺 小田原町十字 二十二名
大久寺 小田原町十字 十一名
妙泉寺 小田原町幸 二十二名
徳常院 小田原町幸 二十六名
蓮上院 小田原町新玉 六名
洞乗院 小田原町山王 二十名
安国寺 小田原町新玉 四名
宝砂山宗久寺 板橋 一名
興徳寺 板橋 二名
栄善寺 板橋 七名
香林寺 板橋 一名
宗円寺 二名
高長寺 谷津 八名
本誓寺 谷津 七名
桃源寺 谷津 十四名
福泉寺 谷津 六名
円妙寺 寺町 一名
清光寺 寺町 二名
竜洞院 足柄村寺町在文化村 参名
大乗寺 小田原町緑町二丁目 二名
正蔵寺 小田原町在早川村 十九名
永昌院 小田原町在中島 三名
小田原町十字二
 居神神社古文書ニ元禄十六年十一月二十二日ノ震災記録
左記通り(文字・意味共に不分明につき略す)
元禄十六年の地震津浪及ビ火事(大日本全史下巻)
 元禄宝永の災異当時にあっては、政道が宜しきを得ない
と天が種々の災異を下すといふ迷信が行はれたのである。
元禄宝永の際には火事や大地震富士山の噴火などの如き災
異が続々として至った。
 元禄十六年十一月二十二日の夜の地震は殊に烈しくて、
江戸では戸障子が倒れ、家々は小舟が大浪に揺られるやう
で、地は二三寸から所によっては五六尺も割れて、砂又は
泥水を吹出し、石垣は崩れ、塀は壊れ、死人怪我人が一時
に出来、男女老幼の泣叫ぶ声は大風の如くに鳴渡り、所々
から火事が出で又海手から大津浪が打上げて来て、浜の方
へ逃げ出した者は其の為に悉く捲取られて目も当てられぬ
有様であった。
 相州小田原は殊にはげしく、津浪で流失され出火して町
は殆ど全滅の有様、此時小田原城天守閣及石垣もほとんど
全潰であった。箱根山は山崩で荷物の通路が塞がり交通は
全く絶ち、鎌倉も殆んど同様の災害を受けた。
元禄十六年小田原大地震(福山)
 元禄十六癸未十一月廿二日夜大地震、小田原城震崩時丹
右衛門政重宿ニ直シテ本丸之遠見番所ゴト顚倒シ落チ(土手下ノカ)
十一
年下ノ之空堀則チ三百間許丹右衛門漸免死而欲伝石垣而所
在御天守之取出於御証文然天守及台亦震潰故□如之何也而
巳時城辺焼出火移天守双甚獄□失仮丹右衛門馳到多門櫓々
崩倒故入自其破風口忽取出於蝶羽御馬印及具足道具鳥以細
引結之縋テ土手下水際逐免其火災矣此御家伝重宝也翌廿三
日以故具達テ老臣及監察使於是用人進士門左衛門来検点之
十二月十一日事達テ忠増多之御聴褒壮大之蒙懇命為御香帳
入之席賜年俸廿石月支之人扶持
 宝永四丁亥九月十八日隠居同年十月廿日死死去時七十歳
法名
見敬信士葬千武州江戸今井谷円林寺
大須賀左次右衛門
此家断絶
大久保加賀守忠朝君
 右之通七枚橋通大須賀之未(マゝ)家之書□類カニ有之ヲイマニ写置
小田原大地震記録書
 元禄十六年未ノ十一月廿二日夜八ツ二三分ノ時
市中死人 弐千百九拾壱人
内男千百五拾弐人
女の分千百三拾九人
馬 三拾九疋
牛 二二疋
 武家拾四人外ニ十八人男女不知城中殿守焼失侍屋敷并ニ
町中不残頽家惣〆而禿家千七軒内五百六拾三軒焼失但し、
妙光院玉伝寺大蓮寺ハ不頽松原大明神イガキ共ニ不頽最モ
焼失ナシ当村中禿家廿八軒寺二ケ寺死人三人外不頽当寺ハ
未ノ年ゟ六年シテ宝永五戊子年建立之
 右之通り同一色村常劔寺カコ帳ニ有之候小田原中ニ外ニ
此リレキ無之明治三十三年ニ此地震ゟ調度二百目当に
(年脱カ) 後来之為記し置也
元禄十六年十一月二十二日地震
内山村 仁兵衛娘
荻窪村 長兵衛娘
眼蔵寺 池上
元禄地震ニ大須賀の功
 沖の方か山の手かともつかぬ方角より嵐のやうな音たて
ゝ轟々と鳴り渡るに呀と警く暇もなく瓦落〳〵と倒れ落つ
る屋根柱大地は裂けて濁水出づる、この世からなる阿鼻叫
喚の巷となった元禄十六年十一月二十二日夜の小田原大地
震は城下城内到らぬ隈なく惨害の跡をとゝめて死屍九百七
十余外ニ死馬十五匹をも数へられて恐らく古今未曾有と称
へられた。
 恰もこの夜御本丸遠見の番所に宿直したのが大須賀丹右
衛門政重であると見る彼は素破大事と起ち上る、刹那番所
は怒濤の小舟を弄ふ様に揺られて見る〳〵土手下の空濠三
十間下に顚り倒れ、丹右衛門諸共忽破微塵と思はれたが天
命幸ある彼は刀を杖に破目の間より現はれて、御天守こそ
大事と見上げて又も今に崩れ落ちさうな石垣を猿のやうに
這ひ伝ひ所蔵の御証文類を取出さんと懸命になったが、大
地は益々響を立てゝ揺れに揺るゝにさしもの天守も潰れ出
して火の烟さへ沸々と見へ早や紅蓮の焰が天守を嘗めん有
様に今は躊躇の際ではないと焰の海や瓦礫の雨を衝いて多
門櫓の破風口に取り付き此所より身を躍らして櫓の中に影
を消した。
 そして再び現はれた彼は両腕に抱いた御家の重宝蝶羽の
御馬印や具足道具(俗ニ唐ノ兜ヲ取リ出シタト云フモ同家々譜には之れを明記せず然し前記の具足道具の内に含まれたるも
のと見可ならんか)を破風口から細引に結び土手の水際へと釣るし下
して天晴火災の難を免かれしめ頓てその身も危難を免かれ
出たと謂ふ。
 その沈着にして豪胆なる振舞には翌日老臣監察使の許に
具申されて格別の感賞に預ル
出典 新収日本地震史料 第2巻 別巻
ページ 274
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 小田原【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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