[未校訂]天守城楼其他櫓門外郭等宝永三年戌旧に復す
地震当時藩主忠増は、江戸藩邸にあったが、幕府から復興
資金として官金一万五千両を借用し、急遽小田原に帰った
が、被害の余りに大きいのに驚き、十二月二十二日再び上
府、幕府に懇請して更に三万両を借用してもどり、直ちに
城下及び領内の復旧にとりかかった。城郭の修理も翌年の
宝永元年(一七〇四)から行なわれたが、何れの復興も極
めて困難なことで、忠増は大いに心をなやまし、同年五月
小田原城下の氏神松原明神社に、「城郭普請の完成、家中
領民の安穏、五穀の成熟」を祈願する自筆の願状を捧げて
(蓮上院文書)いる程である。この地震で家中を初め町
内、郷中に至るまで数しれぬ死者が生じたので、忠増はそ
の遺体を悉く桶に入れ、車にのせて城北谷津の一角に運ん
で葬らせ、慰霊の大施餓鬼を挙行した。そしてここに追福
の一寺を建立することにしたのが慈眼寺(寺堂は正徳五年
に建立)である。幸いにして城郭の復興は幕府の援助もあ
って、宝永三年春四月完成した。