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項目 内容
ID J0700176
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔小田原市史料 歴史篇〕
本文
[未校訂]天守城楼其他櫓門外郭等宝永三年戌旧に復す
地震当時藩主忠増は、江戸藩邸にあったが、幕府から復興
資金として官金一万五千両を借用し、急遽小田原に帰った
が、被害の余りに大きいのに驚き、十二月二十二日再び上
府、幕府に懇請して更に三万両を借用してもどり、直ちに
城下及び領内の復旧にとりかかった。城郭の修理も翌年の
宝永元年(一七〇四)から行なわれたが、何れの復興も極
めて困難なことで、忠増は大いに心をなやまし、同年五月
小田原城下の氏神松原明神社に、「城郭普請の完成、家中
領民の安穏、五穀の成熟」を祈願する自筆の願状を捧げて
(蓮上院文書)いる程である。この地震で家中を初め町
内、郷中に至るまで数しれぬ死者が生じたので、忠増はそ
の遺体を悉く桶に入れ、車にのせて城北谷津の一角に運ん
で葬らせ、慰霊の大施餓鬼を挙行した。そしてここに追福
の一寺を建立することにしたのが慈眼寺(寺堂は正徳五年
に建立)である。幸いにして城郭の復興は幕府の援助もあ
って、宝永三年春四月完成した。
出典 新収日本地震史料 第2巻 別巻
ページ 271
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 小田原【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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