[未校訂]103 小田原城地震碑
中野敬次郎
元禄十六年十一月二十二日午前二時、武相房総の地大に
震ふ。就中小田原地方は最も激震で、城下十二個所より火
を発し、総て海嘯暴溢して殆んど全市潰滅的惨状を呈する
に至った。
潰焼家屋は家中四六〇軒、町家一一二三軒、死者は家中
一五二人、町中六五一人、寺社四人、旅人四十人、合計八
四七人を算したること当時の記録が示す処である。時に小
田原城の塁廓城楼尽く崩壊し、天守もまた木柱の摩擦に依
て火を発して回禄に帰した。越えて二十九日藩侯大久保忠
増官金壱万五千両の借用をなし、翌年宝永元年五月松原明
神社に復興祈願文を捧げ、城池修覆の工を起したが、二年
四月成工し、同月二十七日盛大な祝典を挙げ、以て事を後
に伝へんとて天守台の塁石の一に由来を刻したもの、現在
小田原城天守台下に立つこの写真(写真略)の碑である。碑
の高さ三尺八寸五分、幅一尺六寸、文に曰く
元禄十六年癸未年十一月二十二日夜地震天守城楼回禄
翌年春剏再興之事宝永二乙酉年四月日天守城楼以下迄
外廓惣石壁築成矣於是彫攻千畳石以誌焉
従四位相州小田原城主兼隠岐守藤原朝臣大久保
氏長忠増再営
抑々江戸期に於ての小田原は地大いに震ふこと七回、城
塁楼閣の全壊さへ三度に及んだ。この時は建碑後恐らく天
明の大地震に地下に埋れたらしくあるが、大正大地震に天
守台崩壊の際遇然また発掘せらる。建碑、埋没、発掘それ
皆大地震に依る。誠に因縁の地震碑と言ふべきであらう。
(昭和十六年五月四日撮影)