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項目 内容
ID J0700175
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔神奈川県郷土資料写真集成〕
本文
[未校訂]103 小田原城地震碑
中野敬次郎
 元禄十六年十一月二十二日午前二時、武相房総の地大に
震ふ。就中小田原地方は最も激震で、城下十二個所より火
を発し、総て海嘯暴溢して殆んど全市潰滅的惨状を呈する
に至った。
 潰焼家屋は家中四六〇軒、町家一一二三軒、死者は家中
一五二人、町中六五一人、寺社四人、旅人四十人、合計八
四七人を算したること当時の記録が示す処である。時に小
田原城の塁廓城楼尽く崩壊し、天守もまた木柱の摩擦に依
て火を発して回禄に帰した。越えて二十九日藩侯大久保忠
増官金壱万五千両の借用をなし、翌年宝永元年五月松原明
神社に復興祈願文を捧げ、城池修覆の工を起したが、二年
四月成工し、同月二十七日盛大な祝典を挙げ、以て事を後
に伝へんとて天守台の塁石の一に由来を刻したもの、現在
小田原城天守台下に立つこの写真(写真略)の碑である。碑
の高さ三尺八寸五分、幅一尺六寸、文に曰く
元禄十六年癸未年十一月二十二日夜地震天守城楼回禄
翌年春剏再興之事宝永二乙酉年四月日天守城楼以下迄
外廓惣石壁築成矣於是彫攻千畳石以誌焉
従四位相州小田原城主兼隠岐守藤原朝臣大久保
氏長忠増再営
 抑々江戸期に於ての小田原は地大いに震ふこと七回、城
塁楼閣の全壊さへ三度に及んだ。この時は建碑後恐らく天
明の大地震に地下に埋れたらしくあるが、大正大地震に天
守台崩壊の際遇然また発掘せらる。建碑、埋没、発掘それ
皆大地震に依る。誠に因縁の地震碑と言ふべきであらう。
(昭和十六年五月四日撮影)
出典 新収日本地震史料 第2巻 別巻
ページ 270
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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