[未校訂](前略)
慶長九年の土佐国地震に就き今日に伝はる唯一の材料を阿
闍梨暁印の記録となすこは全地震の節讃岐国福家住人権大
僧都暁印といふ者当国安芸郡佐喜浜村字談議所に客寓し居
りたるが折柄の時変に出逢ひ末世言伝の為にと其有様を書
き残したる者なり文化四年藩人宮崎竹助高門が同地に参り
たる節には猶阿闍梨真筆の記録を同所に存ぜしといふ
右の記録によれば同年大震前にも已に多少気象異変ありと
見へ文中左の記載あり
㈠ 慶長九年甲辰七月十二日
不時に大風吹来り洪水襲ひ出で竹木根葉を吹切り家は
戸壁吹散し山は河となり淵川山と埋れ人の首を吹切り
或は死し或は半死(著者案ずるに人の首を吹き切りと
いへるは少しく仰山なれど最初に竹木根葉を吹き切り
の句に照せば無文者筆癖の文と見へ誤字にあらず孰れ
未曾有の天変なりしならむ)
㈡ 同 八月四日
大風洪水又するなり
㈢ 同 閏八月二十八日
大風洪水又するなり
大風洪水が必ず地震の先徴をなすべきものにあらざるはい
ふ迄なき事なれど震前気象の一体に惨憺なりしはこれにて
知らるべし
(丙) 大震並津浪
慶長九年十二月十六日夜分大地震あり引続いて大津浪あり
土佐囲東岸の地一帯に其災を被りぬ阿闍梨暁印の記録に曰
く
十二月十六日夜頓て地震す其時夜半ばかりに四海浪の大
潮入て国々の浦を破壊す
㈠ 安芸郡佐喜浜 男女五十人余浪に死す
御代官下代に津の国山田助右衛門殿と申侍夫婦子供
浪にとられ朝の露と消給ふ哀れかな悲ひかな云々
㈡ 同、東寺、西寺、浦分室戸岬行当岬男女四百余人死
㈢同野根浦
仏神三宝の加護にか潮不入大成不思議なり
㈣同甲浦 男女三百五十余人死
㈤阿波海部郡宍喰 男女三千八百六十人余死
宮崎高門の暁印記録奥書によれば同日の津浪の佐喜浜に打
入りたる極限左の如し
津浪の入りたる限
佐喜浜村談議所の阿弥佗堂の詰木の上迄
同 中里鍛治次郎右衛門が坪迄
同 崎浜村は船待の名本の出川原迄
兎に角当日の地震津浪は記録さへ伝はれば猶其外の惨况を
詳かにするを得べき筈なるも材料欠乏してこれが明白の研
究をなすを得ざるは遺憾なりといふべし然れど上文記録の
一部分地方死者の数を算する時は其の割合意外に多くして
此を以て他を推す時は全体の被害区域に於ける損害の高は
葢軽々に看過すべからざるものならむ
阿闍梨暁印記録に曰く
東を受け南を受けたる国は大潮入り西を受け北を受けた
る国には心動地震斗にして潮入不是も未来永々の言伝に
書置くものなり
又吾川郡神谷村の庄屋家記といふ年代記に左の文あり
慶長五子年一豊公御入国浦戸へ御入城云々四年目当城へ
御移
同 九辰年大風津浪入
偖は当日の時変は主として津浪の禍大に人民の死亡は多く
これによりしかばかゝる末世の言伝といひ或は旧家の日記
に其記載を留めしものならん但其東南に面する国は地震の
上津浪入西北に面する国は津浪入らずして地震のみを感ぜ
しとは本地震の性質方向等を研究するに必要の材料なれど
猶当時関東諸国の記録を調査せざれば何共其仮定だも下し
難しとなす然れど此地震津浪の災は当時の記録に其区域十
余国に亘れる記載あれば確かに之を以て本邦大震の一と算
するは敢て早計にあらざるべし
(丁)紀念物
土佐東部の国境に近き阿波国海部部に鞆浦と呼ぶ一村落あ
り村中に立石とて高丈余の紀念碑石あり該地震の事に関し
末世の戒とて銘文を刻すといふ三災録に其写あり曰く
敬白右意趣書、人皇百十代御宇、慶長九甲辰年十二月十
六日、亥刻、於常、月白風寒、凝行歩時分、大海三
度鳴、人々巨驚、拱手処、逆浪頻起、其高十丈、来七
度、名大潮、剰男女、沉千尋底百余人、為後代言伝
奉与之各平等利益者必也、
(訓点句頭は便宜施こす所、、末文又誤字あるに似た
り)
余前年彼国漫遊の折親しく右の鞆浦に至り該紀念碑の事を
以て古老に尋ねしに今所在を失ひしといふ葢此辺其後宝永
安政の両度に大震海嘯を感じたれば所謂桑滄陵谷の変これ
が行衛を失ひたるならん誠に惜むべしとなす依て暫く後考
の為め之を記し置くといふ