[未校訂] 土佐は昔からおおよそ百年を周期として大地震、大津浪
が起り、所々方々で大被害を出している。古くは、今から
千六百余年前、天武天皇の白鳳十三年十月十四日大地震が
あり、土佐の国の田苑五十万頃が陥没し、更に十一月三日
の余震には大津浪があったと記録されている。この地震で
黒田郷が永久に消え去ったと伝えられる。
その後の記録はとだえているところ、慶長年間に入って
地震記録上貴重な文献、「暁印の置文」。なるものが佐喜浜
から出ているのである。
暁印とは讃岐国、福宗(家カ)の住人権大僧都暁印という客僧で
あって、たまたま大日寺の前身、談議所に滞留中地震に遭
遇し、その見聞を記録して残し置いたものである。暁印の
置文を抄訳すると、
時は之、慶長九年(一六〇四)甲辰の歳に当るところ、
天下国々の興亡を略記すると、抑我国は神武天皇以来百十
代の時、太閤秀吉の御子、秀頼君御幼少の砌、日本一の弓
取三河守家康公が将軍と成給う。加之諸国の大小名を掌中
に収め、尾張国、山内対馬守と申す御侍、土佐国の地行を
取らせ給いて一国を静諡に治め給う。当時、崎浜の代官は
対馬守の家来、富永頼母殿と申す御方である。
慶長九年、先づ一番に、七月十二日不時に大風吹き洪水
を伴い、竹木を吹飛ばし、家屋は大損傷を受け、山は崩
れ、川は埋れて人の首も飛ぶなど死傷者も多かった。
第二番目は、八月四日大洪水あり。
第三番は、閏八月二十八日、又々大洪水あり。
第四番目には、十二月十六日夜、大地震が起り大津浪が
押寄せた。この津浪で、崎浜では男女五十余名が死に、そ
の中でも御代官下役の、山田助右衛門と申す侍は、夫婦と
もども浪にとられ朝の露と消え果てた。
東寺、西寺の浦々は男女四百人余、甲浦は、三百五十人
余死に、宍喰は、三千八百余人死んで全滅状態であった。
此の時、野根浦は神仏の加護のためか、汐も入らず誠に不
思儀である。言伝えによると、東と南を受けたる土地は大
汐入り、西と北を受けたる土地は、地震ばかりで汐入らず
という。
此の時、崎浜の庄屋は安岡吉左衛門であったが、この一
類は少しも被害なく安穏であった。尚、汐の入ったところ
は談議所のはめ木の上迄
中里鍛冶屋次郎左衛門の坪迄
川は船場の名本の出河原迄
八幡宮の欄干の北の橋を打った
以上である。