[未校訂]〇八百比丘尼の伝説
大昔、白鳳地震前、須崎付近に大坊千軒といって繁栄し
た浦があり、ある時そこの一漁師が人魚をとらえ領主に献
上せず、数人で勝手に食ったことが分りこれらの漁夫は全
部斬罪に処せられた。
ところが、この時奇魚を料理したマナイタの血をなめた
幼児は、母に連れられて山中へ逃げて国外に去り、諸国を
転々したのち若狭国に住いし尼となって八百比丘尼と呼ば
れた。
比丘尼は百数十才まで長生したのち土佐に帰り、報恩の
ため郷里に石塔を建立しようとしたが、白鳳十三年十月十
四日の大海嘯のため大坊千軒は陥没して跡方もなくなって
いたので、しかたなくその付近と思われる所へたて、津野
公が加茂社勧請ののち、同社前に移した。
○野見・大谷・久通の古墳の伝説
千年以上の昔、須崎付近に大坊千軒・野見千軒、戸島千
軒といって、とても繁栄した浦があり、浦人は平和な楽し
い毎日を送っていたという。
大坊千軒は現在、土佐石灰工業の積出所があるところか
ら城カ浦、串ノ浦を経てミノ越あたりまで一帯にあったよ
うで、この付近はまた八百比丘尼の伝説でも有名、人魚を
焼いた竹の串を埋めたところが串ノ浦であり、比丘尼が庵
をむすんで状(手紙)を書いたところが状カ浦(城カ浦)
だといわれている。
また、長者の灘と呼ばれるところには当時富み栄えた長
者が住んでいたといわれる。これらはいずれも白鳳の大地
震で、あっというまもなく海底に葬り去られ、後にはただ
漫々とした海水が波打っているだけとなり、野見・大谷、
久通などの山上にも古い墓が取り残されたという。