[未校訂]安政二年江戸に大地震があつてから四年目の安政五年戊午二
月二十五日夜九ツ時に飛驒の國に大地震があつて、最も慘害
を極めたのは吉城郡にて小島小鷹利高原の三鄕の北部越中國
へ近き所、大野郡にては下白川鄕の村々即ち越中加賀へ近き
所とであつて村數でいふと七十ケ村に亘つて居り、その被害
調査書を見ると、
飛驒國村々地震災害一村限帳寄
高三千四百九十三石五升飛州大野吉城郡七十ケ村
總家數千二百二十七軒
總人數八千四百五十六人
右之内潰家七百九軒
皆潰三百三十三軒
内{
寺八ケ寺
道場一軒
十三軒山崩土中埋相知レ不申分
半潰三百七十七軒
内{
寺六ケ寺
道場一軒
流失四軒
燒失五軒
即死二百三人
怪我四十五人
外斃牛六十四疋 斃馬二十三疋
皆潰口留番所一ケ所(○羽根口)
半潰同 三ケ所(○荒田口中山口小豆澤口)
皆潰高札場 三ケ所
半潰 一ケ所
皆潰鄕藏 一ケ所
半潰同 二十八ケ所
皆潰板藏 六ケ所
半潰同 二十四ケ所
流失同 三ケ所
皆潰物置 三十六ケ所
内一ケ所土中埋相知レ不申分
半潰同 五十一ケ所
皆潰小屋 四十六ケ所
半潰秣小屋 二十二ケ所
流失同 三ケ所
山崩埋同 三ケ所
皆潰堂社 七ケ所
半潰同 九ケ所
皆潰庫裏 一ケ所
半潰同 一ケ所
皆潰鐘堂 四ケ所
皆潰經藏 一ケ所
貯穀流失
籾一石一斗九升五合四勺二才
稗六十三石五斗六升七合四勺
外 木地挽潰小屋二軒
即死六人
右者拙者元御代官所飛驒國村々地震災害一村限書面之通に
御座候。尤田畑損所用水路往還道橋川除類右場所に於て相
糺候儀にて右之外御林山崩場有之由に候へ共未だ取調方不
行届猶委細之儀は追而申上候樣跡支配へ可申送候。以上。
午四月 福王三郎兵衞
御勘定所
以上の通である。但此は本文に見ゆる如く一村限帳として
被害件數を記錄し、其末に惣計即ち寄を記した分だけを寫
したるもので、取調書の全部でぱ無いから、何村に何程の
被害があつたといふことは詳細に知ることが出來ぬが、其
内高原鄕の分は一村限取調帳を表にしたものがある。
皆潰家 半潰家 無難家 即死人 怪我人
跡津川 三 十六 三 二 〇
左古 五 九 〇 二 〇
大多和 三 三 〇 〇 〇
土 〇 四 〇 〇 〇
鹿間 〇 二 七 〇 〇
割石 〇 二 十四 〇 〇
吉ケ原 一 〇 〇 〇 〇
二ツ屋 〇 一 一 〇 一
東漆山 〇 十二 〇 〇 〇
牧 一 四 〇 〇 〇
西漆山
十二
燒失一
十五
内寺一
〇 六 〇
杉山 三 二 六 〇 〇
橫山 〇 二 十二 〇 〇
茂住 三
三十三
内寺一
三 〇 〇
中山 一 一 十七 〇 〇
そこで右の表を前揭の惣計に對照すると、高原鄕の被害は割
合に輕くどうしても宮川沿岸の小島小鷹利兩鄕の北部が激甚
であつた事が推知せられる。
又白川鄕の北部も高原鄕と略ぼ同等程度若くは少しく輕微で
あつたと考へらるゝが、當時の事を追記したものに、
安政五戊午二月二十五日夜九ツ頃大地震夜明までつよくゆ
する也。古川町は高山町よりも強く、屋根の押石餘程落
る。障子立具はつれたりとの事。先第一白川鄕保木脇村家
三間計り土中に入人馬共死す。谷奧より大木大石をゆり出
して家を潰す。又大川の向に小村あり、木谷村長瀨村と
言。其上は別山とて低き山有り。其山背に歸雲山とて高山
在り。此山昔萠れて内ケ島城を潰したる也。今又此山半分
破れ、前山前村を飛越して川の兩岸に打附る餘り大川をせ
き止め川上湖となる。後に湖切出て又川となり、川西に小
山五ツ六ツ殘れり。凡十二年後に我通行之を見る。(桐山如
松記)
と書いあるけれども、何と言つても白川鄕は輕微な方であ
る。小島小鷹利兩鄕の北部の慘狀は、
西山中所々いたむ。羽根願德寺崩、保村稻越村角川村山崩
れ岩落て死する者數多し。專勝寺も潰れる。坂下尚強し。
禰宜ケ澤上村長久寺其外人家共土中に埋、人馬共悉死す。
往來は所々缺損して通行六ケ敷、川の淵を埋て瀨と成、高
原も又大地震なり。中にも岩井戸村大屋某は家の背に大山
あり。麓に居宅あり。背山に高三四間の平岩の立つ有り、
下に大木を育て數本有り、垣の心得也。然るに其岩落來て
山田に入る。押力に沼を吹出と云也。益田、阿多野は大に
かるし。格別の損所を聞かず。(同上)
とあり、而して約七十年後の今日まで慘害の跡を殘せるは河
合村元田(昔の小鷹利鄕内)と坂上村丸山(昔の小島鄕内)であ
つて、元田と丸山の事は、
安政五年二月二十五日夜九ツ時より地震を始む。未明に及
び三四回の強震あり。本村元田地内の一部最も慘狀を極め
たり。元田字やな平に大山あり。此山古は山腹著しく突出
し居たりしが、震動の爲め對岸(小鳥川)なる字荒町に轉
覆、其反動を以て更に字立石の地を侵す。立石はやな平よ
り下る三四町の地なり。荒町は五戸ありしが全滅に陷りた
り。即ち權平、長四郎、清藏、甚藏、源右衞門の五軒なり
しと云ふ。又立石には三郎、久三郎、喜三郎、善右衞門の
四軒を埋沒せしめたり。この天災に下敷となり慘死したる
もの合計五十三名にて、唯一名の女子死を免れたり。其名
をおなといふ、荒町清藏の娘なりしとぞ。(河合村誌)
河合村坂上村坂下村の全部を昔は下山中と言ひしなり。予
が十三歳の頃今は六十六年のむかし語となれるが、此地方
大地震にて、山は裂けて人家を埋み、又山よりおち來れる
岩にくだかれし家或は人畜等其爲めに死したる等其數を知
ざりきとぞ。殊に宮川の東岸に丸山と云へる村ありしが、
同山崩壞して兩岸の村を埋め、岩石落來て宮川に入りなど
したるにより、宮川の流水滋より上流はせきとめられ大な
る淵となり、其後數ケ年の間鮎は滋迄來りて此上流にぱの
ぼることを得ず。此時人家及び住民牛馬等其崩壞せし土石
に埋れ橫死せしもの其數を知らざりしと云へり。かゝる所
はいづくにもありしとぞ。此震災の後、予が十八九歳にな
りし頃かと覺ゆるが、此街道を通りし事ありけり。其頃に
至りても道路崩壞せしまゝ修繕も出來ざる爲め、歩行をあ
やまてば、宮川の激流におちいる心地せしなり。其時よみ
し歌を今おもひ出してしるす。
なゐのため岩くえあるは山さけて家はうつもれ人も死し
けり(森野繁平記)
と書いであり、彼の荒町や立石は今でも全く荒野となつて、
むかし此處に人家があつたとは思はれない程である。又丸山
は一旦宮川をせき止めたといふ土砂の殘餘が川岸に細長い小
丘を成して對岸の元山と相對して居るのを道すがら見る事が
出來る。
また飛驒の地震の事を總括的に書いたものには○コノ次ギニ前揭飛驒三郡
沿革ノ記事アレドモ重複ニ亘ル故略之。
福王三郎兵衞樣云々二月二十五日夜九ツ時大地震、前代未
聞、山中二十五ケ村餘皆大潰申候。死人凡四百人斗、怪我
人數不知。寺八ケ寺皆ツブレ山大クヅレ宮川ヲ留、大ソウ
ドウ也。(飛驒國主名前附)
と錄してあり、以上諸記にて震時の模樣災後の狀態をざつと
見る事が出來る。
附言、河合村元田では羽根尋常小學校元田分教場主任鹽屋
吉郎と河合村青年團元田支部員と謀りて、大正十二年の春
荒町立石兩地震死者の爲めに追悼之碑を建てることに成
り、同年冬嚴肅な除幕式が行はれたさうである。