[未校訂]嵯峨天皇弘仁年中山上有火云々、是れ鳥海山噴火國
史に見る始也、
清和天皇の貞觀十三年辛卯四月八日上山有火燒上石
又有聲如雷云々三代實録、元文庚申六月六日鳥海山瑠璃
之邊東西三百間南北八拾間程土石燒、七年程燒而止、
享和元年辛酉三月八日荒神嶽邊七八ヶ處煙氣立、御
本社並長床の邊大谷に成る、七高山荒神嶽の間に新
嶽湧出、後文化八未年八月右新嶽へ御本社造立猶少
宛煙氣有て申酉漸く止、其損の次第左に述ぶ、
抑寛政十二庚申冬より快晴の折北風山上を吹越に怪
敷白氣馬の尾の如くなびき有、雲か雪かと見ければ
深く心を付し者なし、翌十三年辛酉改元ありて享和
元年と成、春に至り晴天にも猶絶ず棚引故煙氣成る
かと疑ひ、三月八日強力の衆登山見分するに、荒神
嶽の邊八ヶ處煙立有し故、寺社へも訴へける、元文
五年の如くに思ひ何怒るゝ心なく七月朔日晴天なれ
ば予も四五人同行にて爲参詣登り、其夜八丁坂に一
宿して翌二日も快晴にて四方澄渡り象潟邊眼下に望
み、朝日の立登に山形西海に五色を移して目に見へ
ぬ處まて海底に顯れ、景色譬方なく面白かりける、
上寺衆徒行者嶽に假殿構在し面々申に、荒神嶽邊燒
抜たる跡一見いたしまじきかと申ニ付、先達致させ
故本社の邊拜覧して燒跡掘て谷の如く成に大石を轉
し落すに數千𠀋もあらん深さ難計、土に耳を付て聞
くにいつまても落行く音聞ゆ、本社は飛散て跡方無
く長床大石の爲打碎かる、荒神嶽の西大に煙氣立登
れとも遠方にて見し故か何の音もせず、千載谷下に
一ヶ處立昇煙氣ハ譬へて言〓燒石に水を掛る如く「
ヂリ/\」と鳴音する也、夫より七高山へ登るべく
歩行先に指渡六七十間もあらん雪消て真黒なる處あ
り、先達の坊申ハあれハ一兩日の中に燒板べく昨日
まで八ヶ様の處無覺と申けり、其邊を通と氣味悪心
地にて兎や角申す内七八十間も近寄けるに「ドン」
といふ聲石火矢の二三本も一度に打出したらばかう
ても有らんと覺ゆ、山嶽鳴動して只其闇暗に成てグ
ワラ/\と降る、大石小石兩霰玉の如く七高山の半
腹に落散音すさまじく灰はさら/\と降て雪より繁
く、東西南北の分も知れず、命有べうも思はぬと逃
て見ばやと思ひ闇夜の如くなる所方角さへ知れざれ
とも、數年の案内ゆへ千歳谷も越行者嶽を去して爰
を壽度と急けとも降付たる灰雪に濕て泥となりて六
七寸位も深ければ、田の中を走に等しく歩行に足心
に任せす、只一處に居如く思はるれど命を限り爰を
走しに行者嶽半登たれバ、漸夜の明たる如く命を拾
たる思にて後振返り見れば、今抜たる處黒煙重々に
厚く大風にも吹敢べくも見えず、俄に岩山の出たる
が如く立昇る勢ひ甚敷、煙の中に大石小石吹き上る
こと誠に以て團子の釜の中に沸々たるが如き七高の
半腹に吹キ落る石霰玉の降よりしけく恐しなんと譬
へて言ふへき様もなし、漸く行者嶽の假殿に來りて
一ト息「ホツ」と突て胸なで下し水一杯呑に衆徒申
には中々無難に歸るへしとも思はす、甚案事しに少
の怪我もなきこそ是只事にあらず、権現の加護なら
んと悦はれける、されとも顔色土の如く也、皆々暫
休息に氣を落付けば色々草鞋何時の間何處にて脱し
やら足袋斗にて走しと見ゆ、又笠に積りし灰は二寸
許□の毛の如き者も多く有り、其匂ひ甚悪し、態々
命強き事也、七高山へ向て燒抜たれはこそ此方風土
といひ無難也、七高山へ登還へし折ならば只一人も
生て歸るべきやと又々權現堂を拜奉りて歸りぬ、右
の事は思出してさへ身の毛彌立て恐しき心地也、同
六月には荒瀬郷草津赤剝村一人者十二三人参詣しけると
ぞ、如何なる不仕合なる折にや七高山へ行はやとす
る道にて谷下より燒抜たり、其音ドン/\と麓にて
聞くもすさましきに百千の石火夫一度に打出したる
如く黒煙峰を覆ひ土石鳴散て惜むへき哉八人の若者
石に打れて散々に横死しぬ、其頃堂の衆徒に聞くに
予が参詣の折の百倍強かりけると也、灰ハ遊佐荒瀬
兩郷に吹散山の雪地も土の如く也、七日雨降少し出
火せしに灰水にて日光川町川○月光川の二流川々〓々泥水にて幷水〓ハ甚困る
〓〓を〓て〓しは〓下痢す死魚腹取て食すれは障なし 雜魚類多く死して流る、夫より
日々強かりけるが内にて十月十三日比兩日處々燒抜
音雷の如く、蕨岡坊中まで障子にひゞきて恐しかり
ける、余が参詣までハ火氣無之煙氣に手をかざせばフカシの息の如く手に露置くとぞ又山上火燒
出あら不思議と見る内假殿も小屋も燒失、峰や生き
たる草木に燃付て命限りに衆徒も逃去しとぞ、其頃
四五日煙氣立覆煙氣甚き時夜中山上叩く見晝も見たること二三度なり山嶽を見ること
なかりしが、十日許過て少煙薄らきけれは何時にか
七高山と荒神嶽の間に嚴々たる大山涌出たり、皆人
奇異の思をなしぬ、其後月を追ふて燒も薄く成、文
化八年未年に此新嶽を平均して本柱を建ける也、其
後も少し宛は煙氣も有て申酉まてにて燒止りぬ、辛
酉より十三年の内晝夜燒て山形も寶永の御判物とは
大に相違せり、或説に文化元甲子六月十九日由利郡
芹田川小路の折一大蛇死流寄しとぞ申噂實也とぞ、
飽海郡は千載谷を隔てければ土石の患もなく洪水の
難もなきこそ幸なれ、
右變事前代稀成事故書記畢、異説多有とも夫を不記、
予が眼前見聞を記のみ、