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項目 内容
ID J00007040
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1605/02/03
和暦 慶長九年十二月十六日
綱文 慶長九年十二月十六日(西暦 1605,2,3)
書名 〔土佐古今の地震〕
本文
(前略)
慶長九年の土佐国地震に就き今日に伝はる唯一の材料を阿闍梨暁印の記録となすこは同地震の節讃岐国福家住人権大僧都暁印といふ者当国安芸郡佐喜浜村字談議所に客寓し居りたるが折柄の時変に出逢ひ末世言伝の為にと其有様を書き残したる者なり文化四年藩人宮崎竹助高門が同地に参りたる節には猶阿闍梨真筆の記録を同所に存ぜしといふ
右の記録によれば同年大震前にも已に多少気象異変ありと見へ文中左の記載あり
(一) 慶長九年甲辰七月十二日
不時に大風吹来り洪水襲ひ出で竹木根葉を吹切り家は戸壁吹散し山は河となり淵川山と埋れ人の首を吹切り或は死し或は半死(著者案ずるに人の首を吹き切りといへるは少しく仰山なれど最初に竹木根葉を吹き切りの句に照せば無文者筆癖の文と見へ誤字にあらず孰れ未曽有の天変なりしならむ)
(二) 同    八月四日
大風洪水又するなり
(三) 同    閏八月二十八日
大風洪水又するなり
大風洪水が必ず地震の先徴をなすべきものにあらざるはいふ迄なき事なれど震前気象の一体に惨憺なりしはこれにて知らるべし
(丙)大震並津浪
慶長九年十二月十六日夜分大地震あり引続いて大津浪あり土佐囲東岸の地一帯に其災を被りぬ阿闍梨暁印の記録に曰く
十二月十六日夜頓て地震す其時夜半ばかりに四海浪の大潮入て国々の浦を破壊す
(一) 安芸郡佐喜浜       男女五十人余浪に死す
御代官下代に津の国山田助右衛門殿と申侍夫婦子供浪にとられ朝の露と消給ふ哀れかな悲ひかな云々
(二) 同、東寺、西寺、浦分、室戸岬、行当岬、男女四百余人死
(三)同野根浦
仏神三宝の加護にか潮不入大成不思議なり
(四)同甲浦          男女三百五十余人死
(五)阿波海部郡宍喰      男女三千八百六十人余死
宮崎高門の暁印記録奥書によれば同日の津浪の佐喜浜に打入りたる極限左の如し
津浪の入りたる限
佐喜浜村談議所の阿弥佗堂の詰木の上迄
同    中里鍛治次郎右衛門が坪迄
同    崎浜村は船待の名本の出川原迄
兎に角当日の地震津浪は記録さへ伝はれば猶其外の惨況を詳かにするを得べき筈なるも材料欠乏してこれが明白の研究をなすを得ざるは遺憾なりといふべし然れど上文記録の一部分地方死者の数を算する時は其の割合意外に多くして此を以て他を推す時は全体の被害区域に於ける損害の高は蓋軽々に看過すべからざるものならむ
阿闍梨暁印記録に曰く
東を受け南を受けたる国は大潮入り西を受け北を受けたる国には心動地震斗にして潮入不是も未来永々の言伝に書置くものなり
又吾川郡神谷村の荘屋家記といふ年代記に左の文あり慶長五子年一豊公御入国浦戸へ御入城云々四年目当城へ御移
同 九辰年大風津浪入
渚は当日の時変は主として津浪の禍大に人民の死亡は多くこれによりしかばかゝる末世の言伝といひ或は旧家の日記に其記載を留めしものならん但其東南に面する国は地震の上津浪入西北に面する国は津浪入らずして地震のみを感ぜしとは本地震の性質方向等を研究するに必要の材料なれど猶当時関東諸国の記録を調査せざれば何共其仮定だも下し難しとなす然れど此地震津浪の災は当時の記録に其区域十余国に亘れる記載あれば確かに之を以て本邦大震の一と算するは敢て早計にあらざるべし
(丁)紀念物
土佐東部の国境に近き阿波国海部部に鞆浦と呼ぶ一村落あり村中に立石とて高丈余の紀念碑石あり該地震の事に関し末世の戒とて銘文を刻すといふ三災録に其写あり曰く
敬白右意趣書、人皇百十代御宇、慶長九甲辰年十二月十六日、亥刻、於常、月白風寒、凝行歩時分、大海三度鳴、人々巨驚、拱手処、逆浪頻起、其高十丈、来七度、名大潮、剰男女、沈千尋底百余人、為後代言伝奉与之各平等利益者必也、
(訓点句頭は便宜施こす所、、末文又誤字あるに似たり)
余前年彼国漫遊の折親しく右の鞆浦に至り該紀念碑の事を以て古老に尋ねしに今所在を失ひしといふ蓋此辺其後宝永安政の両度に大震海嘯を感じたれば所謂桑滄陵谷の変これが行衛を失ひたるならん誠に惜むべしとなす依て暫く後考の為め之を記し置くといふ
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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