慶長年間に入って地震記録上貴重な文献、「暁印の置文」。なるものが佐喜浜から出ているのである。
暁印とは讃岐国、福宗の住人権大僧都暁印という客僧であって、たまたま大日寺の前身、談議所に滞留中地震に遭遇し、その見聞を記録して残し置いたものである。暁印の置文を抄訳すると、
時は之、慶長九年(一六〇四)甲辰の歳に当るところ、天下国々の興亡を略記すると、抑我国は神武天皇以来百十代の時、太閤秀吉の御子、秀頼君御幼少の砌、日本一の弓取三河守家康公が将軍と成給う。加之諸国の大小名を掌中に収め、尾張国、山内対馬守と申す御侍、土佐国の地行を取らせ給いて一国を静謚に治め給う。当時、崎浜の代官は対馬守の家来、富永頼母殿と申す御方である。
慶長九年、先づ一番に、七月十二日不時に大風吹き洪水を伴い、竹木を吹飛ばし、家屋は大損傷を受け、山は崩れ、川は埋れて人の首も飛ぶなど死傷者も多かった。
第二番目は、八月四日大洪水あり。
第三番は、閏八月二十八日、又々大洪水あり。
第四番目には、十二月十六日夜、大地震が起り大津浪が押寄せた。この津浪で、崎浜では男女五十余名が死に、その中でも御代官下役の、山田助右衛門と申す侍は、夫婦ともども浪にとられ朝の露と消え果てた。
東寺、西寺の浦々は男女四百人余、甲浦は、三百五十人余死に、宍喰は、三千八百余人死んで全滅状態であった。此の時、野根浦は神仏の加護のためか、汐も入らず誠に不思儀である。言伝えにょると、東と南を受けたる土地は大汐入り、西と北を受けたる土地は、地震ばかりで汐入らずという。
此の時、崎浜の荘屋は安岡吉左衛門であったが、この一類は少しも被害なく安穏であった。尚、汐の入ったところは談議所のはめ木の上迄
中里鍛冶屋次郎左衛門の坪迄
川は船場の名本の出河原迄
八幡宮の欄干の北の橋を打った
以上である。