慶長年間の大震
白鳳地震の後 九百二十年を経て後陽成天皇の御宇 慶長九年といふに 又土佐に大震災起る 今回も 其震害の区域は 四国一帯 九州 本州南部に亘る広汎なる地域にして 其の上大津浪も伴うて起り 損害実に無算なりしものゝ如くなれとも 山内氏土佐入国以来 両三年を経さることゝて 未だ国中安堵の遑なき折柄なりしかは従って古記録も十分ならされは 詳かに其真相を知りがたしといへとも 諸種の材料を 書き蒐めて こゝに採録す
偖も讃岐国福家住人権大僧都暁印といふ僧 当時 土佐国安芸郡喜佐浜村の談議所に寓居したりしか其時の有様を書き残したる記録あり
今其記録の節々を抄録すれハ
慶長九年ハ如何成年の逆旅そや 先づ一番に 七月十三日 不時頓に大風吹来り 洪水湧き 山之竹木を吹倒し諸之作物根菜を枯らし 家微塵に吹なし 山ハ河となし淵河ハ山と埋れ 人之首も吹き切るほどの
大風なれは 深山幽谷の土民等木におされて死するもあり 或は半死半生の消息 凡国土の人民何斗万無斗
二番に 八月四日 大風雨洪水浜の砂を吹上
閏八月廿八日に又大風洪水す
四番に 十二月十六日之夜地震す 其夥しきこと 夜半に四海波の大潮入りて国々浦々破損滅亡す
須崎老幼男女二十人波に流死す 其内代官之下代 摂津国小田の荘郷山田助右衛門 蓋如何なる過古の酬ひそや夫婦息子流死す
安芸郡 東寺 西寺 浦分にて
男女四百余人死
同 野根浦
仏神三宝の加護にやあらん潮不入大成不思議也
同 甲浦 男女三百五十余人死
同 阿波海部郡宍喰 男女三千八百六十余人死
猶潮入る限
左喜浜 談議所の阿弥陀堂の詰木の上迄
同 中里 鍛冶次郎右衛門が坪迄
崎浜村は船待の名本の出川原迄
蓋 伝へ聞く 南向の国ハ皆潮入西北向之国ハ地震斗りにて潮不入 是未来永代の言伝に書置者也