Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J00007008
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1605/01/31
和暦 慶長九年十二月十三日
綱文 慶長九年十二月十六日(西暦 1605,1,31)
書名 〔三災録附録〕○土佐国群書類従
本文
又谷陵記に、宝永以前慶長九年の大変は、僧の暁印記録の略に見江つるま〃を記したれば、其書見まほしくて深り求つるに、頃日一書を得て見るに、紙数二三枚の物にて、いかにも筆記の略なれば、後世散失の程を察し、左に如へ置ぬ、文体可笑事多しといへども、其実は見へて、殊勝に覚ゆ、其世の質朴おもひやるべし、
干時慶長九、甲、辰国々諸難立起事
夫我朝天地かいべき神武天皇以来、百〇代御時、将軍太閤秀吉之御息秀頼と申、御年十三歳、幼少故、三河国松平家康と申は、日本第一之弓取也、然ル間太閤秀吉御他界刻ニ、秀頼御幼少之間、御世を家康江被預譲給ひて、公家になされ給ひて、内府と申、御世を為納、日本の将軍と成給ふ、加之我朝握恣掌中、諸国大名小名奉師伝たもふ事無比、去間尾張国山内対馬守殿と申御侍、土佐国御知行取せ給ひて、一ツ国静謐に納給ふ、当時崎浜の代官対馬殿御内富永畜永頼母殿と申御侍、代官仕給ふ、干時慶長九年甲辰、先一番、七月十二日不時に大風吹来り、洪水あそひ出、竹木根葉を吹切、家は戸壁吹散シ、山へ河ニ成、淵川山と埋れ、人の首を吹切、あるひは死、あるひは半死、二番に初八月四日に大風洪水又する也、三番、潤八月廿八日ニ大風洪水又する也、四番二十二月十六日夜、頓而地しんす、其時夜半ばかりに四海浪ス、大塩入て国々の浦々を破損し、崎浜にも男女五十人余浪に死、御代官下代に津の国山田助右衛門殿と申侍夫婦小浪に被取、朝の露ときへ給ふ、あわれ哉、かなしひ哉、東寿西寺の浦々は、男女四百人余死す、甲浦は三百五拾人余死、宍喰ニは三千八百六人余死、此時野根の浦は、仏神三宝の加護にやあらん、塩不入、大成不思議也、東は請南を請たる国は大汐入、西を請北を請だる国国は、心動地しん計ニ而塩いらず、是も未来永々之言伝に書置もの也、
一右之時、在所荘屋安岡吉右衛門之一類ハ、少しも取おとし無之、末繁昌に安穏也、談議所に讃岐国福家の住人権大僧都暁印と申容僧居合、有為目を見、則此置文作る筆者也、汐の入所は談議所の阿濔陀堂のつの木の上迄入、中里かぢ次郎右衛門はつぼ迄入、河は船持(マヽ)の名本の出川原迄入、八幡の大権現のらんかんの北樽を打つふるなり、畢、
文化四年十一月、公事ニ因テ東行シ、崎浜ニ至ル、偶間暇ヲ得、遂ニ談義所ノ在ル所ヲ問、里長、寺田六、兵衛、分一役所ヲ指テ示ス、予且阿闍梨ガ記録今猶存スル乎否ヲ間ヘバ、古記有トテ則出シテ示之、因テ謄写ス、是谷陵記ニ所謂阿闍梨暁印ガ記録ト云モノ也、
宮崎高門識
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
ページ
備考 [古代・中世] 地震・噴火史料データベースでは史料等級で分類しています。本データベースでは史料等級の低いものも表示しており、信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 高知【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.001秒