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項目 内容
ID J00006309
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 文禄五年閏七月十二日(西暦 1596,9,4)
書名 〔日本において一五九六年に起こったいくつかの奇跡の概説=豊後の国について〕○大分県史料 十四
本文
(大分県史料(14)第三部切支丹史料之一)
イエス会のルイジ・フロア神父の報告
イエス会のローマ人フランチェスコ・メルカーテイ神父によってイタリア語ニ翻訳
豊後の国について
この地震と同時に、豊後において起った事件は非常に重大で且つ恐るべきことで、これを報告した彼の地から来たキリスト教徒の口からその報せを受けなかったら信用出来ないでしょう。
豊後の最も古いキリスト教徒の一人が到着するのを待っていました。その男はビアジオと呼ばれ、立派な男で、神を畏れ、めぐり合った大きな危険から逃れた男で、この地に到着するや、あの場所で過したことをわれわれに物語りました。そして現在でも(そのことが起ってから既に二ケ月にもなるのに)自分自身をとり戻していないし、自分の生国の瓦解の驚きを取り除くことが出来ないと言っています。
府内の近くに、三里離れたオキノファマと呼ばれる大きな村があります。多くの船の寄港地であり、揚陸地です。
この立派な男は、この地名にちなんでオキノファマのビアジオと呼ばれ、豊後では良く知られていますが、それはこの男の家が各地から来る多くの人たちの収容所になっているからであります。この男の言うには夜間突然あの場所に風を伴わず海から波が押しよせて来ました。非常に大きな音と騒音と、偉大な力で、その波は町の上に七ブラッチョ(一ブラッチョは〇・五九四米)以上も立上りました。
その後、高い古木の頂から見えたところによると、大変気狂いじみた激烈さで、海は一里も一里半以上も陸地へ這入りこみ、波がひいたとき、沖ノ浜の町の何物をも残しませんでした。その町の外にいた人々は助かったが、あの地獄の巨人がつかまえた人々は、すべてのみこまれ、伴れ去られました。男、女、子供、老人、牡牛、牝牛、家その他無限の品物が持ち去られ、あらゆる物が、そこにかつて陸地がなかった如く、深い海に代えられました。ビアジオは何としても、そのようなことは想像もしませんでしたが、その時刻に妻息子、召使いたちと家にいましたが、木造の彼の家が一瞬の中に波の上に浮ぶのを見ました。妻と息子はおぼれました。彼は少し泳いだあと助かりました。しかしその上に、どうして、どのように逃れたのか知りませんが、その町から波で遠く運ばれてしまいました。くづれ始めていた家にいたビアジオは、何れもキリスト教徒である家人たちと大声でイエスとマリアの聖名を呼んでいました。一方彼の近くで善良な女たちがアミダの助けを求めていましたが、彼女らは心から頼みこみ、危険から彼女らを助けるようビアジオに願いました。しかし善良なキリスト教徒(ビアジオ)はあなた方が助かるよう悪魔の名を唱えていては、どうして私があなた方を助けられるかと彼女らに答えていました。そこで善良な女たちは、彼と共に強くイエスとマリアを祈り始めました。そしてその困惑の中で大急ぎで目の前にあった家屋の材木を彼女らに差出して、イエスやマリアを祈っていた女たちの幾人かを助かるようにしました。多くの善良な女たちは、さし迫る危険の中でキリスト教徒になる誓いを立てました。同じ海岸のオキノファマの近くの四つの村、即ちハマオクイ・エクロ・フィンゴ・カフチラナロ及びサンガノフチエクイの一部は同様に水中に没したと言われています。ハマオクイではキリスト教徒は一人だけだったので、多くの中でこの人だけが助かりました。
これら港の中で沖ノ浜には非常に多くの船隊が泊っていました。その大部分はタイコウのもので、これらの船は王国(現在彼の持っている)の徴税のため豊後に来ていました。これらの船の多くは既に積荷を終って出帆の時を待っていましたし、他の船は積荷を始めていました。その外多くの商人の小舟がいましたが、これらの船についてビアジオは、確かに聞いたこととして次のように断定しています。即ちこれらの船は一隻さえも助からず、同一場所で破け、全部が沈んでしまったと。
府内の町は常に敵意を持ち、頑固でした。四十三年も神父が、修道会の修道士、教会及び貧しい良民のための病院があり、病気の際に救援し、教義を教え、説教し、神聖なつとめをし、また教会の儀式を行っていました。そこにはその土地で生れたわづかのキリスト教徒がいましたが、その中にわれらの教会の近くに住む人がいました。
フランチェスコ王は若し彼等がキリスト教徒になったとしたら、彼にとり大変な喜びであり、また彼自身、彼等の代父になったであろうと述べました。そういうことで、一方僧侶たちは彼等を迫害し、他方同じ町の人々は、日本中の町の中で、この町から修道会が公然とより多くの危害を、特別の恥辱をうけた町でした。それだから大人のみならず青年及び子供たちは両親から教えられ、悪魔から煽動されて、道路にわれわれの仲間が姿を現わす度毎に、突然大声でののしり始め、われらの神、神父たちに恥辱を与えました。その後キリスト教徒になったフランチェスコ王から彼等のこんなにひどい、邪悪なやり方をはげしく禁止されていたが、何れにしてもキリスト教徒及び教会に対して彼等が持っていた反感を取去ることは出来ませんでした。時に、夕方われわれの家に火をつけたり、また家に矢を射たり、また教会や家に石を投げました。その上、教会に向って死人や子供の手足を投げました。その際に坊主たちは公然と、われわれは人肉を食べるため人間を殺しているのだと宣伝し、われわれに反対するにせの証人を立てました。このため、数年に亘ってわれわれの家の周囲を夜番する必要がありました。しかし最高の神、そして正しい裁判官、そして『余は罰し且つ賞を与う』と申された神は、先づ彼等を重分なさまざまな苦難で見舞ったのです。この町はブンゴ王国の首都であり、富裕な商人が住んでおり、偶像の多くの寺があり、この町で大きな権力を持っていた坊主たちが出入りしていましたが、数年のうちに戦争、疫病、飢、火災その他数多くの惨害で衰えて行きました。そこで、この町でヒエレミアがエルサレムの町について言った『多くの人々が住んでいた町が何んとさびれてしまったことか』という言葉がここで十分実証されました。王国の一般的破壊によって、かつて、この町も非常に破壊されましたが、それでも、最近数年間において、改めて人が住むようになりましたが人口は激減しました。そしてさまざまな王国に逃げていた賎民たちは、その状態で帰り、ここに居ついたので、既にその町に五千の家がありました。今や神のかくれたる判断により、この地震によって五千の家屋があったと言われる町が、やっと二百になったと言われています。また悪魔の二つの寺院しかなかったものが、いづれも崩潰しました。そしてバスティアーノと呼ぶ徳のあるキリスト教徒の小さい家は、この家にわれわれの神父が使いに行ったときはミサを唱えていましたが、崩潰した良民の家の中で立っていました。
フアカタの地においては四千人以上のキリスト教徒がおり、善良な老人イオランが殉教したところですが、この地震のとき大河を通って、海が三里も這入りこみました。この騒音が聞えている間に、その河の近くに住んでいた人たちは、家を棄てて、安全な山や田畑の方へ逃げて行きました。しばらくすると河はもとの河床に帰りましたが、大きな破壊をもたらしました。即ち多くの家が崩潰し、多くの人が死んだのです。しかしフアカタの善良なキリスト教徒が語ったところによると、むしろ良民に対して神の膺懲が向けられたようです。そのキリスト教徒は、子供に洗礼を授けたり、死人を埋葬したり、キリスト教徒たちに神のことに関して道理をのべ、説得をしていた人ですが、彼の言うには、その地には多くの村があり、その村のあるものは全員キリスト教徒であり、他の村ではキリスト教徒が良民に交って住んでいました。この中で良民の家が崩潰し、死人を出し、キリスト教徒の家は何等の損害も受けず立っていました。崩潰が全般的であった最初の地震が終ると、数名の善良なキリスト教徒及び神を畏れる人たちが翌朝、直ぐその村に行き、大声をあげて、そこで死んだキリスト教徒がいて埋葬する必要があるか、手当をする負傷者がいるかを尋ねて行きました。この人たちは、良民の家で、死人の側で大声で叫んだり泣いたりする声をききました。そしてキリスト教徒については死人も負傷者も見当らず、それどころか、少しの損害も受けずに立っている家を見ました。
タイコウの徴税代理人で、良家の出であるが、性質極悪の男が府内に住んでいて、妾を持ち、この妾から男子をもうけていました。この妾の家が崩潰し、妾と子供を殺しました。そしてこの男にもう一人の家の子がいて、過去におけると同じ懲罪をうけるのを恐れ、またこの子を預ける安全な場所が見付からなかったので、フアカタのキリスト教徒にたのみに来ました。キリスト教徒たちはこの怖害が通りすぎるまで、彼等の許に子供を預りました。
イウノインと呼ぶ地には(この地にわれわれの神父がいて、数年間この地の人たちの改宗にたづさわっていました。また府内から一日の旅程にある村の洗礼を受ける人たちを助けていた)過去の戦争のため王国の破壊のあと、ある山麓に残っていた村が一つあり、魂の浄化に冷淡になっていた幾人かのキリスト教徒がいました彼等は他の善良なキリスト教徒たちから良い状態に帰るようすすめられましたが、それを良く聞きませんでした。今、こんなに恐ろしい地震のため、その地にある山の一部が崩れ落ちて、その村を埋め、ほんの数名しか助かりませんでした。
これらが現在まで、われわれの神父及び、この辛苦を体験した信頼するに足る人たちから寄せられた報せです。神を畏れ、愛し、神の聖なる掟を完全に守った人々の心に起ったこれらの奇跡のかずかずが、われらの神のおぼしめしにかなうように。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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