(富山県砺波市史編纂委員会 砺波市役所 昭和40・3・20 四一九−四二一頁)
荘川之事
荘川往古は小牧村の屈曲より高瀬村へ落合い河崎村へ到り小矢部川へ入り鷲ケ島村へ流れ候の処、応永十三年丙戌六月大洪水にて野尻川へ入り、それより段々東へ決流れ中村川又千保川へ落合候事
一其の後は藤掛舟渡場(合口ダムの辺)より青島村・高義(儀)新村・五ケ辺#西へ流れ申候。然る処、天正十三年十一月廿二日、大地震にて金谷(屋)岩黒村の東の山、荘川の蛇島と申す所へ抜落ち荘川を突留め、名ケ原の麓へ崩れ流れ候。此の時今の川筋出来申す由にて、其の節雄神神杜も中村へ流れ行き、若林の口水宮へ上り玉ふ由の事
一其の後寛永七年弁才天の西より入川仕り田地押流し、此の時荘川といふ大流川に相成候由
一其の後明暦元年荘川水流千保川へ決して高岡瑞竜寺等危なし。依て柳ケ瀬舛形川除(ますがたかわよけ)御普請の為、奉行伊藤内膳様御出仰付られ候事
これによると、昔は、小牧(おまき)から西に折れて高瀬を通り、川崎(かわさき)(小矢部(おやべ)と山田川の合流点)で小矢部川に合流したというのであるが、高瀬へ流れるには金屋や示野(しめの)の台地を通らねばならず、地形からみてはなはだ不自然である。しかも、示野台地一帯にはおびただしい縄文土器が露出して散在し、歴史時代に入ってからの荘川の河床となった形跡もみられない。歴史時代に入ってからの荘川の南限は野尻(のじり)川もしくは二万石用水の一支流である六カ用水の近く、青島(あおしま)−清水明(しみずま)−上野(うえの)−松原(まつばら)−二日町(ふつかまち)−上津(じょうず)−小矢部川あたりと考えられる。それを境に南北の土質は相当の違いを見せている。
天正十三年十一月、中部近畿両地方にまたがって起った大地震は荘川の様相を一変させた。まず金屋の対岸で山崩れが起って荘川の水流を堰止めた。幾日も滞り、やがて満水した水は文字どおり堰を切ったように流出した。このとき、水流は弁才天社のところで二つに分かれ、一つはもとの千保川へ一つは当時中田川という小流にすぎなかった現在の荘川の流路へ流れ入り、新しい川筋を作った。