〔三壷記〕には
天正十三年十一月二十七日に大き成動きにて天地もわれてのく計なり、百千の雷電のひびきして木船の城を三丈ばかりゆりしつめ家々崩る事数知らず、此時木船の城を今石動へ引越前田右近殿惣領又次郎殿代迄在城なり。此日の地震に荘川の水上に山一つかけて水口をふさぎけり。二十日余り荘川水留て山谷々へ水流ます荘川はまことの川原と成、蛙鮎品々魚を拾ひ金沢高岡石動所々へ掛参す。老功の者申けるは此水一度は流れ出べし、川端の在々村々押流さん事必定なり、されば先立退よと増山森山井波へ方々へ雪の中をしのぎ小屋かけて住も有、有縁を求て借屋に住も有、され共水口の欠山を両山はさんで水道付流れ出ければ、何も目出度しとて帰宅せしむ。利長公も出御被成に付越中の侍衆何も被罷出、荘川の上に島一つ出来ければ弁才天の堂を修造被成弁才天山と名付たり、其時飛韓国阿古白川といふ所は、在家三百余字の所なり、上の山一つ地震に欠落し白川三百余軒を土の底へ埋めければ人一人も不残して在所の上は荒山とぞ成にける。」