荘川大川也、天正十三年十一月二十九日大地震にて木船の城をゆり沈めし日、此ひびきにて此川上の山一ぬけて荘川へ崩入り水口を塞ぎければ、二十日計水留りて山々は水溢れて荘川は河原と成、鮭の魚其外の魚も拾ひ取金沢高岡へ掛運ける、老功の者申様此水一度は流来るべし。其時川縁にて押流れん事必定にて去は立退て水を遁よと云侭に増山森山佐ケ野の方へ立退山に家居せしが、水は自然に流来る無難に家に帰りけり、其水口へ弁才天を勧請して山は弁才天山と云、此地震にて他国の事ながら飛州白川と云所は民家三百余の家の上へ落懸て、家は三丈許の地の下へ沈みければ数百の男女も地下へ沈で、白川の村は枯葉もなき荒山と成、霜月下旬の事なれば白川のもの六人富山へ売物に行命助り、白川へ帰りて見ればあとの形はかはり何れは古里のあとならんと泣々又また富山へ戻りけり。」
阿古は天生のこと、保木脇の地を云ふ、而して此の惨状を国人記載する所には、〔飛騨鑑の兵庫降参の続文に〕
「兵庫も即刻在所へ帰宿領分之者共出合悦申事難尺申候、兵庫も不慮に二度面々へ逢候事大慶不過之候、然者祝儀に能申付面々へ見物為致此中之苦労払させ可申由にて越前より猿楽共呼寄領分之者共も内ケ島へ揃、明日能興行之前夜九ツ過内ケ島之前大川有之候、其向に高山御座候而亦其後に帰り雲と申高山御座候、右之帰雲之蜂二ツに割、前之高山並大川打越内ケ島打埋申候、人一人も不残内ケ島之家断絶、家老之内山下大和同修理両人は内ケ島より三里下鳩谷と申所在所故罷越能興行之朝未明に出仕申首尾にて右之難にのかれ申候。」(以下略)
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この日益田郡竹原郷の威徳寺も地震にて潰滅し、吉城郡高原郷の奥硫黄岳麓の中尾峠は噴火で被害あり、兵庫氏理が方に寄食せし元郡上城主東七郎常尭も御逝去。
(飛騨史壇四ノ九)
被害跡より察するに白山の爆裂であろうと、岐阜県誌に伊東午次郎が述べている。