三 明応の津波と製塩場の崩壊
(前略)
塩屋地下(じげ)文書
る。
神社の由来書を江戸中期、寛保年中に書写されたもので、神社の見取図の上に書かれ、誤字、落字も多く通読しがたい古文書である。一部修正して掲載する。
明応七戊午六月十一日午ノ刻、申の刻迄、火神動の大地震ニテ海道一面御地の国は何国も大波上(のぼ)リ大破也。殊ニ紀ノ国、志摩ハ南うけにて波高く、此時塩屋竃本、塩浜は大破也。惣て浜取の事、月々九日より十九日迄潮時能(よき)ニ付、竃本浜取小供迄、浜取ニ出いそがしきにより竃本浜取家内不残(のこらず)おぼれ死、其内竃本三人たすかる。壱人は相生ひかしの竃本、壱人ハ東浦小和田ノ竃本福太夫、又壱人明星竃本竃太夫、以上三人たすかる。浜取あがり所よき高所ハ家内ぐるみ家三十九軒たすかる。諸人老若男女、小供壱人、二人たすかるもの有、流人よりて方々見付、ひの木山能所見立住居するも有。又ひのき山路ち(地)つづきの事ニ、かみの口、中ノ口、下ケ地三所を見立、十年斗(ばかり)のうち有付(ありつく)も有り、竃本三人、氏神塩釜右袖ニうけ、此所を桧山路と言、御塩焼太夫ニ渡シ置。残十軒竃本家内ぐるみおぼれるより氏神不(し)知(らず)、明応七年より寛保何年迄預り置ゆへ、わけハ残十人の竃本の添地となるもの又畑ニなるも屋敷、田畑ニ成ル(句読点は筆者)
宝泉寺文書の中に「明応、戊、午、六月、大地震有テ大破ス、其時代塩ガマ不残大破、其砌リ山神前エ借寺立改メテ清水寺ト云フ、其時家数弐百軒有ル由」と記している。
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塩屋の宝泉寺の過去帳に、「不幸大地震ニ遭遇シ之(こ)レニ加ヘテ津波ヲモ押シ寄セ 当寺ヲ始メ塩釜ニ至ルマデ蹂躙(じゆうりん)セラレ 其ノ惨タル事紅塵万丈(こうじんばんじよう)ノ裏(うち)ニ呼吸セル人の到底言フベクモ非ラザル也ト而(しかし)テ当時唯一ノ眼目タル宝物ヲ始メ 過去帳ニ至ルマデ失セルナリト古説に伝フ」とあり、(後略)