仁科(現西伊豆町)の沢田の地に鎮座する佐波神社に慶長十年(一六〇五)二月吉日付の棟札が残されている。
この棟札の裏書には
戊午年之なミ寺川之おうせきまて、又其後九十九年与申ニ、甲辰年十二月十六日ニかき之内之横なわてまて入也、末世ニ其心得可有之候、
願栄しるす
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鈴木氏の子孫が明暦三年(一六五七)に伝承をもとに作成した『航浦院縁起』(、辻真澄「豆州江梨の鈴木氏、について」『沼津史談』五号、)記載がある。
(前略)明応七午年八月□五日至未刻津波寄来、如覆天地、依之男女之庶人海底之滓成者不知数、此代者繁用之嫡子兵庫允繁宗也、女子壱人引汐門外之榎二本之間ニ打挟、両眼出露命且助ス、然ハ万行山峰之薬師竭丹衷祈祷七日之間平愈、任立願奉安置当寺、山号万行山ト云、右者系図之趣并予平昔依所聞、為後覚記之、備当寺什物者也
重家ヨリ十四代
鈴木三郎左右衛門尉 穂積重義
明暦三丁酉八月四日
航浦院に伝わったもので享保十九年(一七三四)に書写され『江梨鈴木氏由緒書』とも記された『順礼問答書』によると、この津波で鈴木家の重宝が悉く流出したことが記されている。『開基鈴木氏歴世法名録』(航浦院所蔵)にも簡潔に同様の記載がある。興味あることに『増訂豆州志稿』巻之十仏刹の項によると、この近郷に鈴木家の娘が納めたとされる薬師如来を本尊として安置した寺院が二か寺さらに本尊薬師の寺が二か寺(いずれも円覚寺派)が記載されている。