明応の地震(前略)
この地震で、二宮近辺でも崖崩れ等の被害があった。その一つは中村川の河口近くで生じた。当時、現在のJR鉄橋と小田原・厚木道路との間には湖(中村湖、筆者命名)があり、ここから流れ出ていた川を厩川(うまやがわ)といい、現在のJR鉄橋付近から流路を西に変え、前川で海に注いでいた。その流路の痕跡はJR線沿いの地形に残っている。前川は厩川の訛(なまり)であるという(志沢、年不詳)。志沢選(談)によれば、小田原市中村原禅竜寺の北には、この湖の渡し場があったという。その地点の高度を、現地で確かめてみると、約二五メートルとなる。これによって、中村湖を再現したものが図5(省略)である。
この地震によって生じた崖崩れのため、厩川は橘中学校の南で堰止められた。そのため、中村湖の水位が上がり、南方に発達していた砂丘を押し切って、直接海に流れ出るようになった。これが押切の小字の起こりである。
「新編相模国風土記稿」(長坂、一九七五)には、次の記事がある。
「古は村内字根からみに堤ありて曲流し、西隣足柄下郡前川村に注ぎしが、中古水溢し、彼堤崩壊せし後、今の水路となれりと云」