○文政十一年戌子の秋、西国大風洪水、并に越後大地震の風説
文政十一年秋八月、西国筋大風洪水にて、廬舎輾倒、人多く死せりといふ、就中、肥前長崎、豊前小倉、筑後柳川など尤甚し、柳川の大風洪水は、八月四日、十六日、廿四日、三度也とぞ、関東は七月廿九日なりき、柳川侯の家臣西原一輔老人、その愛婿関子亮、〓南の子、号東陽、、に消息して、これらの事を巨細に告たり、この天災にて、柳川領分の士庶、死たるもの五百許人とか聞にき、この条も千里面談、書、名、にあり、異日閑を得ば借抄すべし、只これのみにあらずして、東海道遠州浜松領見附辺甚しく、上野は高崎在坂東太郎の河筋、人家の屋根まで水の浸せしといふ、、杉浦氏当時高崎近郷に在勤して、目撃する所、予が為にいへり、又、陸奥は、仙台領、岩城領、下野宇津宮領は、洪水によりて六万五千石許損毛のよし、公儀へ御届あり、江戸近郷は、葛西二合半なども枚挙に遑あらず、戸田、岩城、すべて領分大損毛の諸侯は、十一月に至て諸役御免なり、今〓夏より秋冬に至て、米穀高直、金一両に六七斗を換たり、、小売は百文に、八合に至り、塩、蝋燭、灯油、紙、、就中半紙、高直なり、薪炭、五穀、野菜、魚肉類の価、みなとし来に倍したり、今〓風水に傷られたる処々多かれども、予が見聞の及ざるをもて、つばらにせず、よく知れるものは記しおきて、子弟の驕れるをいましめ、荒年の備あらせたき事なりかし、
又文政十一年戊子冬十一月十二日、越後州大地震の風聞あり、その事を板して、巷を売りあるきたり、長岡は、城も聊破損して、死せしもの、疵をかうむりし士庶、凡九百九十余人也しとぞ、、この事公儀へ御、届の人数也と云、この他、三条、村松、新津、燕、今町、与板辺、凡拾里四方、この地震によりて廬舎倒れ、人死すること三千余といふ、三条に本願寺の掛り所あり、この辺殊に甚しく、本堂、十二間、に八間、庫裏転倒し、剰、失火してければ、一宇も残らずとぞ、予が相識なる鈴木牧之は、越後魚沼郡塩沢の里長也、聞くに塩沢辺は恙なし、当時地震も甚しき事なかりしといへり、
この十一月十二日の地震は、江戸も、朝辰、中刻、頗震へり、婦幼等が驚き立程に鎮りにき、越後は、本日朝辰の比より、未牌まで震ひしといふ、しかのみならで、十一月初旬より折々地震あり、終に十二日に至て甚しかりけるとぞ、
文政十一年戊子冬十一月十二日朝五時、越後長岡領地震之記
一、長岡町
潰れ家拾八軒、半潰廿三軒、横死四人、土蔵壁落三百八拾宇、
一、長岡北組村々、三拾三ケ村
潰れ家千八拾五軒、半潰四百拾五軒、怪我人百四拾五人、横死百八拾六人、寺院拾壱ケ寺、馬五疋、長屋廿四軒、深山御蔵、
一、椿沢(長岡栃尾組村々)
家数百三拾軒有之処、建家纔に六軒残り、横死弐拾四人、
一(同)、田井村
同弐拾軒有之処、建家三軒残り、横死拾七人、
一(同)、棚野村
同百三拾軒有之処、不残潰レ、横死三拾七人、
一(同)、大田村
同六拾軒有之処、建家三軒残り、横死拾七人、
一(同)、栃尾町
此栃尾町は潰家も有之候へ共、格別之事無之候、乍去、城山大疵入候間、抜落候はゞ可及大変とて、栃尾惣町小家共転宅大騒動之由、
一、見附町
惣潰家之上、失火にて焼亡いたし、やうやく五六軒残り、横死人怪我人甚多、未その数を知らず、
一、今 町
建家不残潰れ、残り候家五六軒に不過候、是も半潰れ也、
一、三条町
潰家弐千九百拾八軒、右潰れ候上失火にて大抵焼亡、残る所弐三の町少し残り候へ共、是も半潰也、伹三四十軒残り候よし、横死八百六拾人、怪我人は数を知らず、本願寺掛所、四坊皆潰れ且焼亡畢、
一、脇野町
潰家五拾七軒、横死人は無之よし、此処は軽し、
一、与板町
潰家三百五拾軒、半潰九拾軒、横死三拾五人、
右与板より長岡迄在々、潰家無之は稀也、枚挙に遑あらず候、
加茂、芝田、新津、水原等は無難之由、乍然、土蔵の壁は大かた揺落し、庇等はいたみ候へ共、他処よりは軽く御座候、
一、拙家之入魂、三条の小道具屋小高屋宅右衛門と申者之悴、商ひに参居候処、右地震にて早速下船仕候、然所、同人之家も潰れ、且焼亡、土蔵も壁落候に付、直に火かかり、鍋壱ッ出し不得仕合に御座候、此小高屋は北越第一之小道具屋にて、珍敷茶器、刀剣、掛物等致所持候処、不残焼失、其上、地震後雨雪に成候故、立ばも無之罷在候に付、御堂の崩れかゝる大門先に一夜あかし、寒サに不堪候得ども、翌日に至り、一飯を贈るものもなく、只失火の処江近付候て、火にあたり、命からがら凌候よし、三条は越後の中央にて、金銀融通よく、富家多く候処、一時に灰燼となり、良家の女房、娘、平生定綺羅に候へば、その絹布の上へ雨雪を受、無是非菰俵を身に覆ひ、両三日路頭にさまよひ候事、古今未曽有之珍事に御座候、家の潰れ候下では、やれ助けてくれ助けてくれと叫び、或は泣さけび候有様、あはれなりし事のよし、種々承り候事も有之候へども、筆紙に尽しがたく候、父子夫婦の間、眼前に横死の有様を見候得ども、いたし方もなく、貴賎となく家毎に、五人三人焼死し候へども、葬を助るものもあらず、銘々焼跡の畑などを穿て、そのまゝ埋め候もあり、或はその死骸知れず、辛じて骨を拾ひ候も多し、家は潰れ候へども、手伝ふて片付るものもなし、土中は大かたわれ候て、泥をふき出し候間、往来も自由ならず、その混雑愁嘆可被成御察候、塩沢辺は当時何事も無之、無難に候へ共、度々小地震に困り入申候、今朝も壱度、昼後も一度地震にて、火難も気づかはしく、家内のもの一統におそれ申候、乱書御判じ御高覧可被成下候、
十二月三日
鈴木牧之拝
此状、己丑正月廿八日、江戸新大坂町足袋商人二見屋忠兵衛持参被届之、依之、その詳なることを得たり、則こゝに追書す、牧之は予が旧友、越後塩沢の里長なる事、前にいへるが如し、典物舗にして、且半農なるもの也、
文政十二年端月念元
著作堂主人録
追加
越後魚沼郡市の越といふ村の持山に、船山といふ山あり、いかなる故にこの名あるや、知るものなかりしに、右の地震の比、この船山の澗間崩れて、長サ丈許、横四尺の船石出現出しけり、これ自然石にて凹て船の如し、宛も石工の手に成れるに異ならず、この儀神子の口よせにて、同村なる鎮守の社頭へ曳着たりと云、、壬辰の夏、鈴木牧之が状中に、これを告らる、即便誌于此、