[未校訂](安政三年)
十月二日夜亥之刻頃希代之大地震、院内土蔵弐ケ所、物置壱ケ所、奉納石灯籠不残、弁天堂脇玉垣、本堂玉垣等破損、依之佐倉表使僧御院代、江戸表江飛脚壱人即刻差出ス、尤山内村内共怪我等一切無之候
同三日朝佐倉届書
乍恐以書付御届奉申上候
一物置壱ケ所
但弐間ニ三間
一土蔵弐ケ所
一奉納石灯籠不残
一同 石玉垣
右者、昨二日夜亥之刻、大地震ニ而破損仕候、尤院内怪我人等一切無御座候、依之此段御届奉申上候、以上
卯十月三日 成田村
新勝寺
御 役 所
廻状名主方ゟ申来ル
従江戸申来候、昨二日夜亥刻頃地震強 御上屋敷不残潰、夫ゟ御近所ゟ出火ニ而被成御類焼候
右之通被 仰出候間、村中并寺社門前迄不洩様可触知候
十月三日 大木楠右衛門
右ニ付五日神光寺使僧御機嫌伺
御役所其外廻勤左之通
御家老 御年寄 御用人 郡奉行
御代官
手札
御上屋敷被為在
御類焼ニ付 成田山新勝寺
御機嫌為御伺参上
註:本史料は、成田山新勝寺中興第十一世照嶽上人の記録に収められた記事である。照嶽上人代の「記録」は嘉永六年(一八五三)から安政二年(一八五五)十一月までと安政三年(一八五六)から同六年(一八五九)までの記録があり、領主佐倉藩や本寺・寺社奉行所などとの往復書簡をはじめ、触れ・願書・届書などが編纂されている。本史料は前半の記録に記されている。領主佐倉藩への地震被害届のほか、佐倉藩江戸上屋敷の被害を知らせる廻状がきて、早速見舞いのための使僧を遣わしたことが書かれいている。