(元禄十六年)
十一月
廿三日、乙、丑、去暁地震、雖小震其間良久道二町計歩程云々、半覚目歟、猶其後良久従関東、甲府中納言、綱豊卿、書札到来、去十八日大火、竪二里余、横二十町計云々
(中略)
廿七日、己、巳、昨暁地小震云々
従甲府中納言夫婦書状到来、去廿三日江府大地震、自丑刻、及卯刻、、城内其外諸大名・寺社尽数大破、但各々無恙有也、驚入者也、不取敢遣飛札了、追而又有書状、江戸中人馬多死亡、未知其数云々、凡八十年来末曽有地震之由也、後聞、去十八日大風、大火、廿三日地震、江戸中無人心地云々、又東海道関東大震、関西京都同篇、又道中小田原城町人馬地震後火事悉焼失、荒井津波、泊舟、漁船無行方、其外所々駅路山崩、地裂云々、去十八日従関東上京之医師直見其体由相語了、凡当世政天下一第有愁色、此大変、尤可然々々、委事勿謂々々
十二月
四日、乙、亥、
(中略)
今日仙洞御幸省中云々、可有御遊音楽旨、昨日聞其沙汰、然而関東大変聊可有、御猶予事歟之由存之、雖無益事依難忍、愚存之分、右府可密奏旨相示也、仍而密々所令窺、兼々可被停音楽旨所思召、院御所望之間難被止子細有之旨、右府今日密語之者、一端述愚意者也、兎角可在時宜旨相示了、後聞、俄被停音楽々々、不知其時宜、定而有議定如此歟、無音楽条先珍重々々、凡附諸事先人愁憂之御叡心、可有之者歟、所詮当時閑居養老身外無他、雖然為朝廷、為世就事々耳、スシ/\嗚呼々々
(中略)
五日、丙、子、天冬至後暖気如春、昨今日聊有寒気
賀茂祝三位男重元権祝事有願、去年以来有沙汰、然而昨日権祝職事為七家次第可転補旨被仰出旨也、又去年秋以来螫居者森飛騨被免出仕云々、是今度関東大変之間、従関東執権中以奉書、為天下大変、廿二社七大寺、其外諸寺・諸社可令祈祷之由、諸司代江言来、但、不及申朝廷云々、依是定而職事御免事等、俄被 仰出歟、当時愚老不知、万事故不知、委事押計之而已、定而祝三位重元等可愁存之者歟、定而是等事諸司口入歟、余此節不出頭不預、此事心中安穏々々、弥閑居志之外、無他者也、後聞、上七社、七大寺等為関東命有祈祷云々、災変出現俄如此、可謂賊後弓歟、莫言々々
薄暮、右衛門督為勅使来、仍不是非対面之処、仰云、今度関東大地震之間、為御祈可被行御神楽、可為一ケ夜哉、可為三ケ夜哉、兼又来九日可被行例年御神楽、然者先可被行之歟、其後可被行変御祈歟、可申愚存者、被下例文、申云、関東大変、未曽有事也、為御祈可被行御神楽条、尤叶時宜歟、然而期日事、為変御祈条、先九日可被行之事、不及猶予相存之、又、御神楽可為一ケ夜条、可叶道理歟、於例年御神楽者、又択日次追可行之歟、所詮先天下愁々之叡慮可為専一事、各存知上、更雖不及申之、能々可被申旨密々相示了、例文取要卒写之了、如此
中宮御方御申沙汰
寛永五年六月三四五日
三ケ夜臨時御神楽
大樹公御祈祷之由
寛文四年十一月九日
臨時御神楽
先月ヨリ慧星依天変御祈之由也
寛文五年正月廿四日
臨時御神楽
大樹公御祈祷之由
右之外、為関東御祈祷、女御、中宮、国母御方ヨリ御申沙汰、被行御神楽之例度々
所見 以上
右出納勘進云々
後右衛門督申云、御神楽九日可為一ケ夜旨被仰出、且大変御祈云々、所申叶時宜者歟
九日、庚、辰、
今夜臨時一ケ夜御神楽也、依関東大変事也、委事追可尋記也
十一日、閏、午、
今夜如例年有御神楽、猶可尋注也
十九日、庚、寅、
(中略)
未刻許以右衛門督有仰旨、其趣者、今度関東大地震大火事彼是連続間、可有改元被思召之、所存無憚可申入者、申云、改元事尤宜相存之、但於関東儀強而不可及先例歟、只依天変可有改元被思召旨可被仰関東哉之外無愚存旨、能々可被申入者(後略)
注、本史料は東京大学史料編纂所の写真帳により校訂を行った。元禄十七年二月九日条の記載される丁には、日記とは異筆で別の紙が織り畳まれ、綴じられていて、本データでは、その部分を「」で表示している。内容は「元禄十六年未年十一月廿二日夜大地震并同月十八日、廿九日大火之書付」である。