[未校訂]二月二日の日例のことく起出て朝飯たうべはてゝ書よみ物かきなどせしに巳の刻はやゝ過る頃そこともなく物恐ろしき響しけるを何やらんと思ふひまもなく地震ふるひ出てそこらなりはためく妻なる者は南のすのこに居たるが地震なりいてたまへといふいふいはげなき女の子の遊ひ居つる脊戸の方へゆきぬ己もいそかはしく障子あけんとするにとみに得あかざりしを辛うして庭に下り立ぬれと火の事の心にかかればふたゝび内に入て遠つ祖より持伝へたる刀になき父信基に故侍従の君の賜りたる宗光の脇差はきそへてかねてかゝる時持のくべき心かまへし置たる九折を負ひ火桶を諸手に持て出る程そこらの鴨居などの落るさま恐ろしふたゝび庭の外に立出る頃女の子に附き添ひ居たる家の侍野辺池次郎がかしづきてうらの竹薮にありしとて妻と伴ひて来あひぬ程なく板倉理右衛門とひきてともに畑中にあるをふたゝび強くふるひ出あたりふりはためき土けむり立のぼりて此程打つゞき晴わたりたるみ空もくらくなるまてに覚へけるがしばらくして軽くなりぬうひこ幾世も板くらの子もけさより大城の内なる稽古所に手習ひに出居れば共にかしこのこと思はぬとにはなけれども此あたりは家つぶるゝまでもあらざればそに思ひくらべてむかい人やらむとし思はさりけるに外を見出したれば永岡某か来かゝりて稽古所は潰にたれど二人とも駒場に出居たりと告るそともによろこびあふをりから足袋ながらに土をふみつゝ人もぐせずして帰り来ていへらくかしこはことに甚しくてからくして出る折から倒るゝ柱に腕を打せつれどもさせることにはあらずかやうのきづはたれもうけ侍り五人六人は生死のわかぬもあり誰はとありこれはかゝりなどかたるに打おどろかる後にきけばあるは梁にうたれあるは瓦に埋りなどして鍬もて掘出したるなどもあれども皆命はつゝがなしとぞ十四五より八つ九つまでの童百人あまりもつどひゐたるやのなこりなく倒れつるに斯つゝかなくものせしこゝの司々の心くばりかしこくこそ志ばしありて近藤守衛をいざなひつれて唐人町なる石原のおば刀自をとはんとて立出るに猶ゆりやまねば浜伝ひしていたるに砂場に出居る男女のなりわめくこえ調度持通ふさわきかまびすし明神のみやしろより大手の堀をはじめ町家は多く潰たれどもかしこはぬりこめそこねつるのみことなることなければかへさに山本有浦をとぶらひて家にかへり武具一ようひと鑓一筋長刀一振から船の来つらん時の品々入置たる長持二棹取出し竹薮の中に幕打廻し土に畳を敷て夕陰になりて寒さ堪かたければ一よさけあたゝめて打のみ人々にものます薮にかくれて杯とるさまは七賢人に似たれど欲する物はこざけにはなからんかし時のまもたゆみなく強く軽くゆり動く御目付物頭町奉行は馬にのり従者を引まとひ廻りありき町々の柏子木の音かまびすし甲斐国小沼なる高尾親民来とぶらふこは竹花町にをりあひたるがその家も倒れにたりといふ
三日天気よしけふはなゐもすこしかろくなりたれどもきのふのいたみにや多門御櫓を初けふにいたりてつぶれし家も多くあり北隣なる小川義起か仮家にて浴してありと聞けばさらばとて畑中に幕引は江て湯をわかし皆々ゆあむ四つ過る頃より稽古所に掘出たる幾世の手習ふ具うけとりにこよとあればかれともなひて箱根口にかゝるにそこらの築地長家ども潰れつれは二の丸まで一目に見渡さるゝに家を潰されたる町家のものらこゝ人たまいに戸障子もて打かこひつゝ出居るさまあわれ也幾世をは稽古所にゐなして己は小峰に往て見るに大地のさけ渡りたる広さ三寸もあるへく見ゆめのさとなる服部寿太郎をとふ母家は半かたふきて外構の塀皆倒れにたり門につゝきて己が姑の住居ある方は一きわあれにたり孝太郎が伯父隣之助はこゝの高どのより飛たりたれどもあやまりなかりしは幸なりきなど語る夫より母刀自のさとなる里見弾正右衛門をとふこは門よりし堀長(ママ)屋は半倒れたれども母屋はさせることもなしこゝを立出る頃幾世も来あひたり伴ふて孕石求馬がり(ママ)とふこは外構ことごとく倒れて門と家居も半崩れにたりあるじ云へらくおのれはもやのすのこにありしにいつこともなくひゞくおとすやいなや家居と共に一丈ばかりも高く上りぬと覚えてそがまゝ庭にまろびたりとぞ此家を出て幾世をばそが伯母をとへとて小幡かりゆかしておのれは板橋村なる常光寺の墓所に詣づ十が九つわゆり倒したる中にわが二柱のみはかはわきへよりしのみかはらざりしもうれし高祖父のみはかは立てるまゝに真横に向ひたるもありし寺を出て此村の吉左衛門と云が許へ此頃馬を預け置つれば立よりてきくかわれるふしもなしすべて此わたりはいたくゆりたりと見ゆるも多し夕かたつきて南の方畑中に仮屋を移しぬ申過るころ寛治岩原村より帰りたりこはその村の者なればかしこのさまを見てかへさに竹の花法授寺の墓を直しこよとてけさ早くやりたるが法授寺の墓は皆倒れて彼のわたりはまち家も多く潰れにたりかれが宿なる里は四十あまりの家数なるが軒ばの土をはなれたるは只一のみなればかれが家も潰れぬとぞそが隣なる塚原村は家数も多きがことごとく潰れて死せる人もありそが中に何かし院とかやうばその口より下は土に埋りて鼻のいきのみ通ひ居たるをけふの昼過る頃掘出たるが手足は得きかざれとも命は助りたり又吉田島にては馬と口とりと家あるじと三人一つに埋られて死せりなど見聞事等を語るもいとあはれなり
四日天気よしなかのさまきのふにかはるふしもなし夜に入てはあしから箱根の山になりひゞけば山や崩れんなど人々いぶかる後にきけばこゝらの山には大石共のなかにゆるみたるが落るなりとぞ暁方門の前に馬の蹄のをとしてのれるはかねて聞しける江戸の大目付なる松下元治がこえなればやがて御馬やなる富岡かり行てみるに元治がとみの公事によりて供人もくせず今日午過る比かしこを出て来れるなり先づ殿の御前の御上をとひ奉るにかしこはなゐかろくて御館の内かはれる事なしと云に心をちゐぬ此わたり人に聞伝へて来つどふ島田大助がいへらく今日千度小路の魚商人がいひしは二日には例の漁すとてこゝの海に船にのりていでしにいづの国伊東の山動き出し高くなりひきくなりしすると見る内海原に一筋の道を立て同じさまにゆり出し早川の流に入て小田原より雨降山の方へと動き出しつ此筋におりあふ船はふなはだをやぶられなどしてからふじて陸につくにこをはづれ居たれば常にかわりたる事もなかりしといひしとぞあやしの物語なりけり
五日天気よしなひのさまきのふにかわる事なし入生田の紹太寺の昭寮とふよふ方丈は芦の湯に浴しありて道ふたがりたればあるかたちを知らず我遠祖の墓二つ倒れにたりと云ふ松下元治朝とくとく己が衣はかまなととり着て大城に登る大磯宿小島政業消息す梅沢よりあなたは軽かりしとあり辰刻より安斉町小幡早川をとふさせる事なし三の丸に入て広小路に出るに大城の堀石垣崩れ落櫓かたぶけるさまは云ふもさらなり山本内蔵をとふ母屋半つぶる幸田町に出で岩瀬をとふこは棟行十五六間もあるぬべき母屋の一尺ばが(ママ)り東にゆりのきたり松山をとふ母屋潰たり辻磯田をとふ半潰関名をとふ門も母屋も立る物なし飯田をとふ半漬なり捨がたき物なれば物とらせて帰へるに仁科片桐をとふさせる事もなし八幡山にて加藤吉野をとふいたくゆりたりとゆふ揚土にて蜂屋をとふ母屋潰れたり伊田大山をとふ門倒れ母屋もいたくあれたり島村をとふ半潰このわたりの士家潰るゝ者多けれどしたしからぬはとはず半幸町岡をとふこもいたくあれたり竹花町須藤町の町家潰家いと多くえゆきがたき所さへあり大新馬場三浦をとふ此わたりはやゝかろきかたなり義方歌やよみしととひければ初のいたくゆりて家崩ぬへん覚えければ「ゆるくとて持さゝえてよ久方の天つ御柱国の御柱」とよみ侍しかば家のゆらぎやゝしづまりつとこたふれば義方わらふこのわたりの亡やしき潰たるは見へず組の長屋には潰家も多くあり夕へになりてわ雨つよくふりて仮やの中に雫たれいといとたへかたければ「人のよに思ひくらべてたふる哉あさゆふ露のかゝるやどりも」
六日今日も猶ゆりやまざれどもきのふの雨にてすこし心なちゐし上に大風ふきて仮屋に堪えかたければ常の家に入しも多かりしに何神何仏の告ありなどくさぐさのこと言ひ罵るを無実を伝へて又々魂を飛してもとの仮屋に移りなどすつれづれなるまゝに人々のいふをきけばきのふ竹の花町山重といふ商人のつぶれねば調度とりかたつくるとてぬりこめに入てなゐもゆらぬ時に梁落て死したりとぞ又芦湯の亀屋てふゆやどの妻は畑宿の楼にありて幼き子を抱ながら谷へ落て面半かけとられしかども命は助りたりと云もありまた片浦の石切共十人ばかり過ちありし中に江浦にて一人岩村にて二人石のはさまにありて出る事なりかたくわめきてありければ竿の先にたうべもの結付て内に入れんなどいひあふのみ出すべき手だてなく石工ともあつまりてよるひるたゆみなく石を切りて五日といふ日数をへて石を切崩せしに一人死つるのみ残れるはつゝがなかりしなどゝかたるもありきくきく肝にこたへぬはなかりけり沼田の西念寺といふ寺はさして家屋もそこねずしてありつるまゝ東の方へ六尺ばかりよりしとそあやしともあやし
七日天気よし今日も夜にかけては七度か八度もゆりたるらんが江戸なる酒井田家より消息す宇野泰助来こは江戸にもの学びに行たるがこゝのさま見んとて帰れるなり今日は初午なれども稲荷まつりも心ばかりにて何事もことそぎたりこたびのあらましを公にてしらべられたる書物司人にこひてみる驚かれたる災なり今日は城の下の町家に米をたふ
八日天気よしなゐのさまきのふにかはれることなし今日も町家に米をたふ
九日天気よし夕へになりて風ふくいづのくに三島宿山本義香来とふらふかのわたりはいとかろかりしといふ早川村の山道二里斗か間所々埋りて往かたかりしをけふほりあけたりとぞ又同じ村の油屋てふ家の裏にあたりて大きさ六尺ばかりもあらん大穴出来て深さはかりがたしといふいかなるゆへなりけん
十日晴よるひるにかけて三四度なゐふるみなかろし小川義起がいへらく此程はなすこともなくさうざうしきを女の子をいて夕飯たうべにこよといへばかゝる事の後のかたらひ草ならんとてゆく畳三ひらばかり敷たる仮屋に六人七人入こみて飯たらふかくてもすまさるゝものなりけり
十一日晴なゐのさまきのふに同じいぬる朔日の夜より四寸五寸ばかりに小き星のつどいて形けたになりたれが夜ごと子の刻にあらはるゝとなんいにし年信濃国になゐのさわきありしをりも彼国にては此星見へつと人々いひのゝしればこよは出て見たれどもさるものありとも見へず今は出ずなりにしかあるはあとなしことにや
十二日木の工よひて家のゆがみつくろわす来つとふ人々のかたるをきけば箱根路は山の頂より日毎に大石崩れ落ちて二日より往来をとゞめられしが九日より道やひらけにたり又土肥の方は六日のなゐ強くふるひ川村の方は九日のなゐにて山々いたく崩れ湯本はきのふのなゐつよくて戸障子はづるゝばかりなりしとぞ道の遥かに距れる処々のかくことなるは如何なる故にやこたびのなゐは専ら足柄上下の郡のみにて陶綾大住の二郡伊豆駿河の国々にはいとかろかりし中に駿河の竹の下のみ足柄郡にかはる事なくつよかりしとぞこゝは古歌にも足柄の竹の下道とよめればそのかみは相模の内なりしにないのさまもて考れば土の厚さなども此国と等しかりけん
十三日昼一度夜一度なゐふる雨ふりて暮頃に晴る今日も木工来て家の破れつくろふ今も猶夜毎に廻りあり
十四日晴なゐのさまきのふに同じされど日を経るに従ひてやゝかろくなりつれば今日は常の家に戻りぬ今日きつどふ人のいへらく辻甚四郎か家うらなる井の二つこたび潰れつるに中よりなめらてふ蛇多く出てたりければとりて捨つるに水四斗を盛るべき桶に一つ余りありしとぞ其蛇皆眼見へずと云
十五日やゝかろし中沼村のもの云六十あまり家半は潰れ半はゆかみ破れ有しまゝなるものは何一つなしかのわたりの村々皆同し様なりとそ
正兄曰苗子のみにて名のなきは皆苗子と記されしなり後に書入るへき為なるへけれと今はすべなけれは苗子のみ記せり又遠き右より問ひこしは記されたれど近きわたりの人のとひたるは記されず煩しければなるべし此事序に記す
附記
古記曰元禄十二年十一月廿一日夜関東大地震小田原尤患箱恨山崩湖暴溢
陽成天皇元慶(ママ)三月九月諸国地大地震武模武蔵特甚数日不止公和廬舎無一全者百姓多厭死地陥道路不通
おくかき
古き諺におそろしき物の第一に数へ来れるは地震なりおのれ若き時さる恐ろしき事に二度あひなりそは嘉永五(六カ)年二月二日の小田原地震と安政二年十月一日の江戸の大地震となり安政の時は嘉永に較ぶれば小田原わたりは軽かりきをよびをれば三十九年の昔なりけり程へて其折にはかしこにかゝりし事ありきこゝにもさる事なんありしなと物語れは若き者は珍しかりけりさるに此程ふと吉岡信うしの嘉永五年の日記を見出たるにいとつばらに其事を記されたりいとも噪かしき中にて物せられたる下かきの物にて読みとりかたき処の多かるを二月二日より十五日までを辛うして書き清めてかく物せしは人々にも見せまほしくてなんかしこ明治廿三年ふくすみ正兄しるす
石原重顕曰く元禄嘉永共に旧藩の調書類あり賛成員古田元清兄の所蔵にかゝる同兄に乞ふて次号より掲載すへし且つ余の古老より聞くところもあるべし予め告け置くのみ