[未校訂]時に天明二年七月十四日丑の刻、大きなる地震にして、既に十五日五つ時前ゆり返しあり、所により前夜よりもつよし、夫より人気立てつなみ来らんとひしめき、数町をはしめ、荷物を背おひ童爺婆なんと念仏まじり、伝肇山あたこ山をさして押合声。
屋敷御長屋にかけて潰家廿七軒、大破損小破損八百軒余、別て竹花より揚土筋弁才天曲輪三ノ丸掛て甚敷ゆれ、あのあたり道すし東西にゆれて蔦の千筋の如く土をくたき候、新馬場より新宿西海子和らかに又山角町つよし、竹花より大工町あたり迄まんぞくなる家一軒もこれなく、町中の蔵々七分通りやくに立す、一体富士の辺り凄しく矢倉沢道筋すし往来成り難く、須走村中に家居を土に埋め候もこれありよし
一月廿三日 大久保加賀守
(名代)大久保中務少輔
右領分去年七月地震にて城内櫓門塀石垣など破損、ならびに家中町在共家作など大破に及び、田畑地破往還道堤など損じ候ところ、手当難渋につき拝借の儀相願われ候、これにより金五千両拝借仰せ付けらる旨、芙蓉の間に於いて、老中列座主殿頭これを申し渡す