Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3300363
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及近郊〕
書名 〔茅ヶ﨑市史史料集 第五集藤間柳庵「太平年表録」〕○茅ヶ﨑市柳島H19・3・30茅ヶ﨑市発行
本文
[未校訂]四一 江戸の大地震、柳庵の見聞記(十月)
十月二日夜四ツ時頃、卒爾に大颶吹来音するや否、大地
動出しけれハ人々あわておとろき駆出したるも、後にハ
夢のこゝちせり、一躰去霜月四日、関西国々大地震にて
人家転倒し、梁桷に圧され又は大地之裂口へをち入、過
刻つなミに引れ人命を失ふもの数多ありと聞伝へけれ
ハ、今般もつなミあるへしと活るこゝちなふ按しけるに、
曽て其気なきは仕合なり、乍去動り反し計かたく、翌三
日朝広場へ砂子をならべ其上へ板を敷、すわといはゞこ
れにのる手段まったく大地さけたる時の覚悟なり、然と
も我居宅はいふに及ばす、構中建家無難、土蔵は蛇ばら
腰まき少々ひゞわれたれとも直に手入れいたす迄にも無
之、追て左官の序をまつのミ、隣村も右同断の次第、其
中にも一之宮村ひのや店は土倉壁墻をふるひ落したるよ
し、其外厚木・藤沢辺はよほといたミ家あれとも小田原
は至てかろし、扨御府内存外の大地震にて、御屋敷方市
中共過半つぶれ、其上八方より出火して倒死人夥し、殊
に両御丸御炎上の沙汰なれは驚怖して、事ニ四日四ツ時
頃より発足し、翌五日八ツ時頃御府内へ駆付、赤羽根へ
立より孫娘せい女の勤居候保科公の御屋布の様子承り
とゝけ、直に御地頭所へ罷越安否奉伺候処、御三方始奥
様方御一統御機嫌克被為在、御用人下々迄怪我一切無御
座候由承り一先安心いたし候得共、いまた昼夜五六度
ツヽ動出候ニ付、御上ハ白昼は御座敷すまひにて、夜は
庭前へ燈灯をてらし幕を張、野陣同断の有様にて五六日
の間夜中を御しのき被為遊候、御知行所名主共時々夜中
不睡詰居、夫々持運の手配いたし居候得共、漸々十日過
ニ相成震も相止けれはいよ〳〵安堵して先以御無難の恐
悦奉申上候、尤御玄関より奥向余程かたふき、御庭先の
石垣所々崩落候分共無捨置場所は来春迄御凌のミ、御手
当有之ニ付関東御知行所にて為御見舞金百両上納仕候、
此わり合半金高わり、半金人別と先例に随ひ取計差出候、
是にて無滞一同帰村被仰付候、夫より市中大破焼亡の場
処相廻候処、先 御本丸御櫓いたミ御塀崩れ、西 御丸
二重橋辺御石墻大崩レ、其外御囲土手御塀・石垣共御城
淈へ崩入たること多し、中にも桜田見付・和田倉見付等は
石動出かたふく、此辺御役屋敷・御大名屋鋪神田橋内追
手先迄あらまし焼亡す、又二の廓神田橋外飯田町辺迄の
御石垣所々くつれ、垂枝の古松溝中に入たる有様あわれ
也、その中にも下谷辺并本所深川辺別してはげし、上野
御山内所々いたミ三枚橋広小路焼失、板本車坂箕輪辺よ
り千住小塚原家并つふれ出火して焼る、新吉原五町街残
らず動つぶれ一時に焼る、其訳は江戸町一丁目より出火
して大門口へ焼かゝりけれは、廓人逃るに十方を失ひな
きさげぶ内、又角町より燃上り廓中一円の火となりぬれ
は、塀を破り橋をわたす間なく過半焼死す、日本堤大地
裂たること凡壱尺余なり、夫れより田町大音寺まへ花川
戸、山之宿、聖天町、猿若町三芝居やける、馬道も大半
転覆して火うつるなり、浅草寺御境内所々いたミ多し、
御本堂ゆかミ左方の破風崩れをち、五重塔の輪ばかりく
の字形になりになりたれ共転倒せざるハ妙智力といひつ
へし、又並木通諏訪町より出火して駒形迄焼るなり、川
東は本所石原より出火して立川通・相生町・林町・緑町
辺迄焼る、小梅引船辺も同断、南ハ深川八幡一之鳥居よ
り出火して相川町・蛤町焼るなり、其外本郷より出火し
て湯島切通迄焼出けれ共、加州様御火消の人々止る、又
南伝馬町二丁目より出火して鍛治町・樋町・畳町・五郎
兵衛町、東は具足町・常盤町・因幡町白美屋敷迄焼る、
夫より芝口は柴井町・宇田町焼る、高輪海岸通大地壱尺
ほとわれたり、又、赤羽根辺より西麻布・広尾辺処々崩
れ焼る、総して山の手四ッ谷・赤坂・麴町辺は少しやは
らかなりといへとも所々よりつぶれあり、小石川より小
川街辺別して烈しく大半焼る、飯田町・番町に至りやわ
らかなり、凡御府内五千余町の町々より一時に三十余ヶ
所の出火なれハ、いづれ方よりいづれといふわかちなく、
一円天をこがすの有様、逃行先に十方をうしなひ、あき
れはてたるばかりなり、又東海道ハ川崎・神奈川、中山
道は浦和・大宮、日光街道は鳩谷・大門、水戸街道は松
戸・小金辺迄、東は行徳・船橋、或は千住・草加・越ヶ
谷、甲州街道ハ布田・府中辺迄の噂さなれは、江戸十里
四方の大地震近年稀なる変事なり、今人江戸地震と唱ふ
るも宜なり、尤二百年前かかる天変ありたるよしなれと
も、其節は御府内の住所今の十分一にして、市中は勿論
御屋敷様方の御家作等も諸事御手軽なれは損者も多から
ず、実に此大都会三国無双の麗地、広大不窮の人竈なれ
ハ倒覆炎上して落命したるもの幾千万と計りかたし、其
外明暦の大火にて没死人十万八千人と申伝ふなれとも、
中々以今般の人失に及びかたし、右ニ付格別の 御仁徳
あらせられて、市中五ヶ所(頭注「深川海辺新田、同八
幡社内、幸橋御門外、上野広小路、浅草雷神門」)へ小屋
をしつらへ、人家焼失のもの并死を遁れ再餓死せんも
のゝ浮命を御救下され候段、莫太なる御鴻恩と奉仰ざる
ハなし、因之市街有徳の町人共、為冥加御救小屋の困民
への御足合をねがひ、金銀米銭何品に限らず差出たるも
のゝ名目左に
金二朱ツヽ 一人まへ 雷神門前御救小屋へ
アサクサ中丁
 酒井屋
銭三百文ツヽ 同 御すくひ小屋へ
日本橋青物丁
 さぬきや
金二朱ツヽ 同 雷神門前御救小屋へ
アサクサ中丁
 三喜
味噌汁 毎日三荷ツヽ
御すくひ小屋へ
同コマカタ
 うちた
髪さかやき 雷神門前御すくひ小屋の人々へ銘々ほどこし
馬ミチカミユイ
 平五郎
其外追々ねがひ出たるもの挙てかぞへかたし
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 1465
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 茅ヶ崎【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.006秒