Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3300360
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及近郊〕
書名 〔川﨑市史 通史編2 近世〕H6・3・31川﨑市編・発行
本文
[未校訂]安政期の大地震・大風・流行病
開国の問題で江戸幕府が大きく動揺する安政期、川崎市
域では大きな天災が続いた。
 安政二年(一八五五)の十月には大地震が関東地方を
襲った。長尾村の鈴木家の日記によれば、十月二日の「夜
四ツ時(十時ごろ)大地震……近来まれの地震」とあり、
同家では穀蔵・醬油蔵などが倒壊した。余震はその後も
続き、日記には翌安政三年になっても余震の記述がある。
各地の被害状況は川崎領村々一四か村で、家数一七二六
軒のうち、「皆潰家」が二一軒、「半潰家」が三八軒、「破
損」が二二四軒、大師河原村では「さよ」という一一歳
の娘が潰れた家の下敷になり死亡している(横浜市 添
田家文書)。川崎宿の被害も大きく、全壊した家屋が一八
軒、物置が二か所、土蔵が一か所、半潰三八軒、破壊二
二四軒に及んだという(村上直「近世の川崎」『川崎市史』
昭和四十三年)。翌安政三年になると、村の富裕者が村々
の潰家に対して施金・施米を行った。すこし長くなるが
「安政三年辰十月頭中村々潰家へ施入名前書留」(横浜市
添田家文書)から各村の施金・施米の状況を示してみた
い。下新田村では名主彦兵衛等九名が金二両を出し合い
皆潰貧民八軒に、渡田村では名主太平等一一名が金一二
両一分二朱を皆潰一七軒・半潰一一軒に、大島村では一
七名が金一二両二分二朱を皆潰二四軒、半潰一一軒に、
小田村では一三名が金一〇両二朱を皆潰二二軒・半潰三
軒に、大師河原村では六五名が金一七両一朱と米六石四
斗を皆潰四八軒・潰貧民四〇軒に、川中島村では二三名
が金一二両を皆潰一〇軒・半潰八軒に、稲荷新田六郎左
衛門組では二二名が金一四両一分を潰家貧民二一軒・半
潰貧民二八軒に、稲荷新田七左衛門組では五二名が金三
分一朱・米一八石八升・麦八斗を潰家三四軒に、池上新
田では三名が白米三斗・玄米二石六斗を皆潰六軒・半潰
六軒に、堀之内村では九名が金九両を皆潰二八軒に、南
河原村では一五名が金三両二朱と春麦一石・穀麦四石八
斗を皆潰二一軒に、中島村では一四名が金一両と米四斗
五升を皆潰五軒・半潰三軒に、それぞれ施している。前
述したようにこのような農民相互間の助力(合力)は、
領主の[御救|おすくい]と並んで災害時には必須のものであった。
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 1463
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 川崎【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.002秒