[未校訂]安政の大地震
為政者たちが政争に明け暮れていた安
政年間には、災害が多く発生し、市域
とその周辺にも大きな被害を与えた。まず、安政元年(一
八五四)十一月四日、東海地方に大地震が発生し、翌五
日にも伊勢湾から九州南部にかけての広い範囲で地震が
起こり、東海道の交通はしばらく途絶した。江戸やその
近郊でも揺れを感じたが被害はそれほどでもなかった。
しかし、翌二年十月には、江戸でマグニチュード六・三
と推定される直下型地震が発生した(安政大地震)。この
地震は二日の夜十時ごろに起こり、直撃をうけた江戸市
中の被害は大きく、地震とその後の火災で、[本所|ほんじょ]・浅草
などの下町一帯を中心に死者七〇〇〇人余り、重傷者二
〇〇〇人余り、倒壊家屋一万四〇〇〇戸に及んだ。
市域に残された「大地震死亡人御届書写」によれば、
九十九家の大名の江戸藩邸で、家中の者が合計一四五八
名死亡した。例えば、佐倉藩邸で四一名、老中阿部正弘
の備後福山藩邸で三一名などであった。この「御届書写」
の末尾には、次のような狂歌が記されている(立石完雄
家文書)。
大地震 阿部が崩れて 水戸もない
是から先は 堀田出がよい
伊賀餅の 店を追たて さくら(佐倉)餅
阿部川は ことし一ぱい
長岡は 是から先は 阿部・内藤(あぶないそう)
久世川もなくては 堀田老中
大地震の直後に老中に就任した佐倉藩主堀田正睦を[褒|ほ]
め上げ、老中首座阿部正弘や先輩の老中にあたる松平伊
賀守[忠優|ただます]、牧野[忠雅|ただまさ](越後長岡藩主)、内藤信親、久世[広|ひろ]
[周|ちか]を皮肉った内容である。新老中となった堀田正睦への
期待を込めて、佐倉藩領の村で作成された殿様びいきの
狂歌で、震災の直後にあっても、したたかに世相を見つ
める庶民のたくましさをみることができる。