Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3300291
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔瀨戸田町史 通史編〕○広島県 H16・3・31瀬戸田町教育委員会編・発行
本文
[未校訂] 地震の記録もいくつか伝えられている。宝永四年(一
七〇七)十月四日昼九つに半刻ほど揺れ余震もあったと
いう資料編第四一号
。これは芸備の他地域でも確認できる古い方
の例で日本史上最大ともいわれる東海・南海地震のこと
である。詳しい記録としては安政元年(一八五四)十一
月四日・五日の東南海地震がある。震源地からは遠く離
れているが、この時の記録は芸備地域でも各地に残され
ている。瀬戸田町では宝亀屋伴助の「永記録」が実に詳
細で年内の余震の記録がある資料編第一三四号
。外に今治屋平次郎
の「万集記」も詳しく、興福寺の資料にも墓が百余り倒
れたと記している。
 これらの資料によると、五日の地震が大きく瀬戸田町
では古い家の瓦や壁がずり落ちたが怪我人は出なかっ
た。被害が大きかったのは塩浜で、釜家・塩蔵・炭納屋
などの屋根がずり落ち、土手の石垣などに幅五、六寸か
ら一尺もの割れ目ができたという。三番浜や二六番浜で
は地割れができて泥水が吹きだしたといい、液状化現象
が起こったようである。塩浜は海岸の干拓地に築かれて
いたからである。
 役人たちの対策としては、門口へ灯篭をかけ用水桶を
出し、老人病人に心を配り、火の元をそのままにして逃
げ出さないよう町内へ触れを出し、間断なく見回りさせ
ている。五日夜の様子は、老人・子ども・婦人は船に乗
せ、そのほかは広場や畑に小屋掛けをして夜を明かした
という。とくに注意しているのは海の様子で、満潮にな
るべき所が干潟が現れるなど津波を警戒しているが、心
配するほどの高潮にはならなかった。この時ばかりは、
当世の欲の強い気風も出生以来初めて欲を離し真心とな
って人々は神仏に祈ったという。
 宝亀屋伴助は、家の覚えとして、避難場所や火の用心、
貴重品のとりまとめのほか座布団をかぶって飛び出すこ
とまで書き残した。今治屋平次郎は翌二年正月初めの恒
例の俳諧に「地震のそゞろになりけるをいのりて」とし
て「ゆるがさね ことのはじめや 幸木」と記している。
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 1313
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 広島
市区町村 瀬戸田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.001秒