[未校訂] 安政元年(一八五四)、畿内・東海道を中心に起こった
東海道沖地震は、十一月四、五日を中心に十五日頃まで
三〇回余りも震動したすさまじいもので、畿内・東海道
はいうにおよばず東山・北陸・南海・山陰・山陽諸道に
もおよぶという広範囲な地域に大きな被害を出した。
安芸・備後両国の各地でも、この地震については大規
模であったと記録されている。たとえば広島城下町で「人
家崩死者数不知」香草・井上家「年代記」
とあるほか、高田郡地方で
は四日の朝「四ッ時(午前十時)より大地震、昼夜少も
やみまなし」「徳栄寺、旧記」
翌五日にも「夕七ッ時(午後四時)
別に大地震」「貫船社旧記」
とあり、その様子は「床上に居るもの
一人もなし、池水七八寸傾き、建木倒るる程、屋根瓦落
ちわずらいの限、同年極月より翌正月二日頃迄凡そ百余
日の間地震止まず前代未聞の事」甲立・今井家文書
と記録されて
いる。賀茂郡竹原地方でも「古今未曾有、皆々驚」くと
いう大地震で、社倉蔵の壁が落ち、石垣が倒れ、大川堤
から泥水が噴出したりしている「下野村。節用」
豊田郡北部でも、
「山川モ如裂ルカ前代未聞之地震」として、家は揺れ、
瓦は落ち、石垣は動いたという戸野・福原家「違例之義扣旧記」
。また、安
芸郡府中市(現広島市)でも破損家屋が多く、辻・沖土
手や道路に亀裂が生じ、泥水が噴出したとある「大巳豊前諸書付写」
。
いっぽう福山地方においては、「当国福山御城下内、深津
村人家いたみ多し、尤古き家甚し、神村にて田中より水
新に吹出し、下は川と成、其外所々其類多し、上山南村
上田藺苗仕付場所御高八拾石程の処、山谷出水留り、其
辺井水古来より有所、此度地震にて水絶(中略)、尚又此
辺呑井之水絶、今は地中の穴と成所数々多し」「菅波信道一代記」
と、家屋がいたみ、井戸水が枯れ、水田が荒廃したとそ
の被害の状況を伝えている。
このように安政元年の地震は、いまだかつて経験した
ことのない大地震であった。地震がおさまったのちも数
日間余震が断続的に起こったので、福山藩では民心の動
揺をおそれ、流言蜚語の流布を戒めている『福山市史』中巻
。